29 天雲に 近く光りて

 碑の文字は、会津八一氏の遺墨集から採択されたものである。
氏の短歌はすべてひらがなばかりの書き方で、この碑の歌も
全部ひらがなで書いているのが特色である。
 穴師山西のふもとの高台にあり、第12代景行天皇陵を眺める。
歌 作者不詳
 巻7−1369
筆 会津八一 

地図
天雲
近光而
響神之
見者恐
不見者悲毛
あまくもに
ちかくひかりて
なるかみの
みればかしこし
みねばかなしも
天雲に
近く光りて
鳴る神の
見れば恐し
見ねば悲しも
天雲の近くで光り轟く雷のように、お逢いすれば恐れ多い。
なのに、お逢いしなければ悲しいのです。
 
 大和国 穴師坐兵主神社
祭神 若御霊神社(右) 兵主神社(中) 大兵主神社(左)
創建 崇神天皇60年
 深々した森のなか,相撲神社からさらに登ったところに、兵主神社ががかくれている。
三ツ屋根造りの寝殿に三社を合祀する。
 この道を左に行く。もと弓月が岳(巻向山)の山頂に祀られていた上社兵主社は、
大神神社石上神宮に並ぶ延喜式名神大社であったが、
応仁の乱で焼失し、現在の下社に移って祀られるようになった。
 明治4年5月の太政官布告では郷社になった。
 山の辺の道万葉歌碑の中で一番高い場所にある。大和盆地の一部を眼下にし、
巻向山麓にある。
 穴師山の山麓、巻向川の北に鎮座。兵主神を肥る。現在地は「穴師大兵主神社」の鎮

座地で、当社はもと巻向山中にあったが、応仁の乱で焼失したために穴師大兵主神社へ

合祀、同じく式内社の巻向坐若御魂神社も合祀して、主殿を穴師坐兵主神社とし、穴師

大兵主神社と巻向坐若御魂神社を相殿に奉斉したと伝える(社伝)。もとは当社を上社、

穴師大兵主神社を下社と称していたという。祭神は、御食津神(みけつのかみ)ともいい、
素戔嗚命ともいい、天富貴命・健御名方命とも、大己貴神の分身伊豆戈命とも、倭大国魂神
などの説がある。穴師坐兵主神社の右社に末社して 巻向坐若御魂神社 を祀る。
祭神は若御魂神または豊宇気毘売神の親の和久産巣日神としている。
由緒や当初の鎮座地については不明。
穴師坐兵主神社の左側に末社として祀っているのが 穴師坐大兵主神社 で、当初

からここに祀っている。
祭神は大兵主神。大兵主神については、八千戈命とも、素戔鳴命とも、天細女命などの
説がある。

 延喜式神名帳にも記録される格式高い神社で、崇神天皇60年ころに創設された
ともいわれている。
大国御魂神 天照大神  檜原神社
穴師坐兵主神社 大神神社 豊鍬入姫宮 
崇神天皇  垂仁天皇 大和神社
箸墓古墳 大直禰子神社 相撲神社 と穴師神社  

穴師はみかん栽培発祥の地

 『日本書記・古事記』に「田道間守は、垂仁天皇の命により不老不死の

霊薬『非時香菓』(ときじくのかぐのこのみ・現在のやまとたちばな)を求め、
常世国に遣わされ 十年の歳月を経て持ち帰った」と記されています。

 持ち帰った「やまとたちばな」が最初に植えられた場所が当時の宮殿
(皇居)、現在の桜井市穴師でした。

約二千年昔の事です。

 その後、「やまとたちばな」は土地の人々が丹精して、代々の天皇に献
上されるようになり、宮殿に「右近の橘左近の桜」として植えられるなど
大切にされるようになりました。

 この時から穴師の「みかん栽培発祥の地」としての歴史が始まりました。

 近世になって「みかんの里・フルーツの里」としての人気が高まり、

秋になると「みかん狩り」の行楽客で賑わいます。