石神遺跡(いしがみいせき)地図

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 須弥山石(しゅみせんせき)、石人像(=道祖神・どうそじん)と呼ばれる、噴水の仕掛けを持つ
石造物が出土した。
 広大な石敷や大型の建物跡などからは、天武天皇の母である斉明天皇の迎賓館的な施設
だったことがうかがえる。 
  斉明天皇のころの遺構は東西大垣と長廊状建物によって東・西二つの区画に分けられる。
西側は廂付きの大規模建物がみつかり、日常的な空間として利用されていたと考えられる。
通路によって南の水落遺跡とつながる。
 この石上・水落遺跡こそ天皇に直属した禁苑の施設、或いは遠来の人を安置する客館であった。
   
東側の区画は井戸を中心にその北に四角に囲まれた掘立柱建物群と石組溝が縦横に配置
されている。建物の周囲と空間地は石敷であったと推定できる。 
 観世音経(観音経)について国内最古の記録となる木簡が見つかっている。
 676年に写経を届けたことを依頼主へ報告する内容。
 686年に天武天皇の病気平癒のため観音経が詠まれたという、日本書紀の記述をさかの
ぼっているが、当時、現世利益を求める観音信仰が広く浸透していたことを裏付けている。 
7世紀前半のほぼ正方形の池(方形池)あととみられる石組みや、67本の杭の列が出土した。
西に推古天皇の宮殿小墾田宮があったとされることから、同宮に関連する庭園などの施設だ
った可能性がある。 
飛鳥寺の旧寺城に接する西北一帯は石神遺跡とよばれている。明治時代に須弥山石石人像
が出土し注目された。昭和56年以降継続的に調査が行われ、飛鳥時代の斉明天皇
(655〜667)のころを中心に各時代の遺構が複雑に重なっていることが明らかになってきた。 
 南にある水落遺跡との関連性も深く、水を流すための銅管や木樋(もくひ)も延びており、両遺
跡をつないでいた可能性が強い。
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石神遺跡 区画「隅」初確認 
 飛島時代の「迎賓館」の跡とされる明日香村の石神遺跡で、7世紀前半のものとみられる塀の
跡が見つかり、区画の角にあたる「隅」が初めて確認できた。奈良文化財研究所(奈文研)が29日、
発表した。7世紀代の遺跡全体の構造や変化を考える上で貴重だという。
 石神遺跡は、斉明天皇 (在位655? 661)の時代には、外国の使節らをもてなす饗宴施設があ
ったと考えられている。明治時代に、噴水の機能を持った石造物「須弥山石」や「石人像」が出土
し、飛鳥時代の様子を想像できる重要な遺跡として知られる。
  奈文研が継続的に調査をしている。今回は1981年の第1次調査区にあたる335平方商を再び
発掘していた。 ,
 見つかった7世紀前半のものとみられる塀の跡は、横(東西)に長さ約4.5m、縦(南北)に同約8.5m。
柱の穴も5基見つかった。斉明天皇の時代より前の時代のものとされ、遺跡の東南隅を区画す
る施設だったとみられる。過去の調査で見つかった遺構を含めると、塀の長さは東西では約102m
以上に及ぶという。
 石神遺跡では、はっきりとした区画の隅は検出されていなかった。飛鳥の歴史に詳しい相原嘉之・
奈良大准教授は、「石神遺跡の初期段階の大きさが推定できるようになった。この段階の掘つ立
て柱塀は、藤原宮の大垣にも匹敵するような立派なものなので、『迎賓館』以前にも、重要な施設
があったことが推定される」と評価する。
  2024-3-1 朝日新聞(清水謙司)
 
 
 
 
 南北塀1 杭い4本、東西塀1 杭2本で
分かりやすく「隅」を表示している。
二つ上の図では、緑色で表示されている。
 石神逍跡の第1次調査区を再発掘し、新たに7世紀の各時期の区画塀を検出しました。
特に、石組溝と一体的に機能したと考えられる区画塀を検出し、7世紀前半の石神遺跡
の区画東南隅を初めて確認しました。7世紀を通じて、石神補跡全体の構造や変遷を考
えるうえでも重要な成果といえます。
 石神遺跡は、漏刻(水時計)跡である水落遺跡の北側、飛烏寺の北西に位置します。
今回の調査区はその東南部にあたり、明治35-36年 (1902・1903)に石造物(須弥山石・
石人像)が出土した水田です。さらに昭和11年 (1936)には東京帝室博物館の石田茂作
が調査をおこない、石組溝や石敷を発見しました。昭和56年 (1981)に、奈良文化財研
究所は石神遺跡第1次調査として水田全面を調査し、掘立柱建物や塀などの遺構を新
たに検出しました。
 その後、周辺の調査が進むなかで、第1次調査区内に未検出の}a構が続くことがあき
らかとなり、今回の調査はこれら未検出遺構の確認を目的として、水田の西半を中心に
部分的な再発掘をおこないました。
 石組溝1 昭和11年に発見された東ヘクランクする石組溝。
  南北約21m分を再検出しました。区画塀に併行する7世紀前半の溝と考えられます。
 東西塀1?南北塀1 7世紀前半の石神遺跡東南隅の区画施設。西から続く東西塀1が
北折して南北塀1になります。石組溝1に併行し、調査区北方で東へ折れると推定されます。
 東西塀2 東西塀1から東へ延びる7世紀前半の区画塀。石組溝1の側石を壊しており、
東への区画拡張を示します。
 石組溝2 昭和11年に発見された7世紀中葉から後半までの石組溝。L字に折れ曲がり、
西隣の調査区で北折します。構築方法などの差異から、石組溝1より新しい遺構とみられ
ます。
 東西塀3 7世紀中葉から後半までの石神遺跡南限の区画塀で、調査区を横断し、さらに
東へ続きます。 
 東西塀5 7世紀後半から末までの石神遺跡南限の区画塀。後世の堆積物を取り除き、
5基の柱穴を新たに検出しました。
 その他の遺構 石敷や東西塀4 (7世紀中葉から後半まで)、東西溝1(7世紀後半から末
まで)、自然流路(奈良時代以降)を確認しました。
  現地説明会資料より
   
 石人像  須弥山石