橘寺 地図

本堂
 聖徳太子生誕の地と伝わる寺、名は垂仁天皇の命令で田道間守(たじまもり)が
持ち帰った不老不死の果物・橘の実に由来する。
 日本書紀には橘の尼寺と記されおり、当時は向かいの川原寺と対であった
と考えられている。
 寺院の創建は定かでないが、聖徳太子伝暦によれば太子がこの寺で、勝鬘経
(しょうまんきょう)を講ぜられたとき、瑞祥があって、それによって仏堂を建立した
とある。
 現在の本堂や太子堂などは江戸時代の再建。
 本堂の太子堂には、聖徳太子像が祀られている。
 太子が勝鬘経を講じた時、天から舞い落ちた蓮華を埋めたという方形土壇。
大化改新後の1畝(いっせ)の基準と伝え、別名畝割塚(うねんわりづか)。
 聖徳太子誕生の地といわれ、法隆寺四天王寺とともに聖徳太子建立七大寺の一つ。
推古天皇十四年(606)太子によって建てられたと伝える。太子はここから坂田寺跡の
上宮に移り、さらに法隆寺東院の斑鳩に転じた。
橘(時じく香の木の実  田道間守  四天王寺
法隆寺 叡福寺 蘇我氏陰謀の挫折 
大聖勝軍寺      
 橘の寺の長屋(ながや)に吾が率寝(ゐね)童女放髪(うなゐはなり)髪上
(かみあ
)げつらむか
  作者不明 巻16−3822
 
 蓮華塚(れんげづか)
 
 天平時代には寺域56平方キロ、堂塔66を数え、法隆寺の百済観音
と玉虫厨子もここに納められていたのが天平時代に移された。
もと欽明天皇の離宮で、橘樹寺(たちばなきのてら)とも呼ばれ、
タチバナの木が一面植こまれていたのでその名があるという。⇒⇒⇒
 発掘調査によって、伽藍は四天王寺式伽藍配置であるが、
当時の寺院は、南向きのものが多い中、この寺院はめずらしく、
東向きで東大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線に東から西へ並んで
いたことが確認された。
講堂が回廊の外に置かれている点は山田寺と同じで、山田寺式という
説が有力である。
東門より、正面が本堂。
続き⇒⇒⇒
伽藍配置比較⇒⇒⇒
 橘寺の寺域北縁には、川原寺南門に対峙するように北門が開く。
その両寺の門の間には、飛鳥宮跡と下ツ道とを東西に結ぶ古道がある。
両側に側溝をもつ幅11mのその道路遺構は、延長1.3kmにわたって
確認されており、飛鳥の基幹道路であったことがうかがえる。
 
 境内より東門
東を正門とする。
左(北)は本坊、右(南)鐘楼、蔵。正面は東門。 左(北)は観音堂、右(南)は経堂。
 
 如意輪観世音菩薩(重文)
 木造の如意輪観世音菩薩は、平安時代中後期の作で、台座、光背も含めた高さ約3m。
腕が6本あり、苦しみや煩悩を消す。
武器や、意のままに願いを叶えてくれる玉・如意宝珠などを持っている。
 あごに手を当て、人々の苦しみをどう救おうかと考えている姿。 
経堂 観音堂
 
 
 五重の塔心礎 
 塔心礎の柱穴は、心柱の三方に添木を当
てる特殊な形式で法隆寺若草伽藍の
心礎と似ている。
 タチバナの形(葉と果実とをとり合わせたも
の)の柱穴が残っているが、
久安二年(1146)雷火で焼けた.。
 
 五重の塔跡
 飛鳥時代には百二十数尺(約40m)の五重の塔が建っていた。
五重の塔で最高の大きさ、東寺(京都)54.8m、2番目の興福寺(奈良)50.8m
は別格として(いずれも国宝)、
東海道随一の規模である静岡県富士宮市の大石寺(地図)のもので34mであるから、
いかに規模の大きいものであるか想像できる。
 最少のものは室生寺(奈良 国宝)16mである。
 
往生院 天井画

二面石  三光石
 聖徳太子勝鬘経ご講讃の時、日、月、星
の光を放った。
高さ1m程の石造物。
 仏教以前の思想をひそめた造型といわれ、右善面、左悪面と呼ばれる。
我々の心の持ち方を現したもので、飛鳥時代の石造物の一つである。
(文字の記録はないが、寺の言い伝えによれば善悪は左右逆となっている)
 二面石はすり減ってしまって、形がはっきりしていないが、よく見ると、猿石
石人像のように、日本人ばなれした顔つきをしている。
 
 センダン
西方より 西門
飛ぶ鳥の形をした龍王山・三輪山・巻向山
 三輪山のうしろ(北)に龍王山巻向山が左右に並ぶのを、
鳥が羽を広げた姿に見立てた三山が「飛鳥」の語源という説もある。
石神遺跡から少し北にいったところあたりから或いは、もう少し遠く橘寺
の近くに歌碑が設置されているが、そのあたりからも飛鳥に見える。
 飛鳥から見た三輪山などの美しさを、柿本人麻呂が詠んだという長歌を
刻んだ歌碑が、橘寺近くに設置してある。
 飛鳥について⇒⇒⇒