第36代 孝徳天皇地図

茅淳王
敏逹天皇の曽系の押坂彦人大兄皇子の孫)の子
斉明天皇と同母弟)
吉備姫王
誕生…596年(推古天皇4年)
皇后皇女(はしひと)
立太子━━
即位…645年(皇極天皇4年)6.14  在位年数…9年
崩御…654年(白雉5年)10.10  年令…59才
皇居難波長柄豊碕宮  年号大化、雉(はくち)
皇極天皇は当初、皇位を中大兄皇子に譲ろうとしたが、皇子は中臣鎌足の助言を入れて叔父の軽皇子へ譲位を申し出た。次いで軽皇子は舒明天皇の長子である古人大兄皇子がふさわしいとして即位を辞退した。古人大兄皇子は出家、やむなく軽皇子への譲位が実現した。
天皇は一種の民主的裁判の鐘匱の制を定めている。また、親族法上の男系主義の原則を示された男女の法も定め、社会改革を志した面も見られる。
○「日本書紀」は鎌足の業績を高く評価し、宰相として諸官の上に位置づけ、政策の立案、実施の要であったように記述している。
  
○孝徳朝で最大の事件は大化改新である。皇極天皇4年は大化元年である。(年号使用の始まり)

○冠位12階を19階に増やしている。このことは社会の構造が複雑化した結果、より規制する必要が生じたために機構改革に意欲を燃やしされていたと考えられる。
○また宍戸国より献上された白雉にちなんでさらに白雉と改元された。さらに班田や造籍も行われている。
653年(白雉4年)中大兄皇子は奏上して都を大和に遷そうとしたが、天皇はこれを聞き入れなかった。しかし、皇太子は皇極上皇、間人皇后、大海人皇子らをともなって大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に入った。公卿、百官らはみなこれに随行した。難波長柄豊碕に宮が落ち着くにはかなりの時間と労力が払われ、その間、行宮を転々としたため、前年完成したばかりの宮を天皇は簡単に放棄しようとはしなかった。皇太子の独走に業を煮やした天皇は、恨みを込めながら豊碕宮で崩御した。
天皇と宮の名⇒⇒⇒
陵墓(山田上山古墳)  円墳
所在地大阪府南河内郡太子町大字山田
○御陵は、大和に通ずる要衝の竹ノ内街道に沿って、最も東側の丘陵上に位置する小円墳である。うぐいすの陵とも呼ばれ、古くは石棺が見えており、海獣葡萄鏡が出土したと伝えられている。

竹内街道 鶯関跡⇒⇒⇒
若草山 鶯陵⇒⇒⇒