第28代 宣化天皇(せんか)地図

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 宣化天皇 宣化天皇皇后橘仲姫皇女 身狹花鳥坂上(むさのつき)

父…継体天皇(第三皇子)
母…尾張(めのこひめ)
誕生…467(雄略天皇11)
御名・異称…高田(ひのくまたかだ)・武小広国押尊(たておひろくにおしたてのみこと)
皇后…皇女(たちばなのなか)
立太子…━━
即位…535(安閑天皇2)12  在位年数…4年
崩御…539(宣化天皇4)2.10  年令…73才
皇居…(ひのくまいおりのみや)  年号…━━
〇内政上、稲目の大臣としての登場があり、宜化朝以降、蘇我氏の政治上の活躍が注目される。
大伴金村(おおとものかなむら)と物部麁鹿火(あらかび)をともに大連とし、蘇我稲目を大臣に、そして阿倍大麻呂臣を大夫とした。
〇大伴金村大連も依然健在で、外交上朝鮮半島とも交渉を持ち、遠国の屯倉(みやけ)が散在し、非常に備えて、博多に集めている。
〇「日本書紀」によると、天皇は清廉で心が澄み君子に相応しい人格を備えていたとされている。

陵墓…身狹花鳥坂上(むさのつき)(粟原塚穴古墳)  前方後円墳
所在地…奈良県橿原市鳥屋町字見三才
〇御陵は東北に面し、周濠と造り出しを有し三段に築成されている。全長163m、後円部径91m、前方部幅113mの規模であるが、前方部の開きの少ない前方後円墳である。古墳時代中期の形態を示している。
 別名ミサンザイ古墳とも呼ばれる。
〇巨大前方後円墳の丸山古墳(みせまるやま)を宣化陵とする説がある。全長316m、前方部幅210m、高さ15m、後円部径150m、高さ21mの規模で、前方部が後円部を凌駕する。
「廟陵記」や「大和国御陵絵図」などによれば内部構造は全長26.6m、玄室長さ7.2m、幅5.4m、高さ4.5m、蒼ケ長さ18.3m、幅1.2〜2.4m、高さ2.6〜3mにも及ぶ巨大な横穴式石室で、天井石は六枚の巨石で構成される。玄室の北と東にくり抜式家形石棺2基が三骨一廟式に安置されている。

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 陵の桃花鳥をツキと呼ぶ。これはトキから転化したものと思われる。
トキは桃の花の色をしている。
トキが大量にいたと思われる。
この地区は鳥屋町である。
   
 宣化天皇陵から北側に位置する畝傍山  宣化天皇陵の周濠と続きにある鳥屋池
6世紀前半のことです。古墳がある尾根先端の北側の橿原市鳥屋

町の見三才に鳥屋ミサンザイ古墳が造られます。

墳長138mの前方後円墳です。墳丘は2段で築かれます。
前方部は北向き、くびれ部
の両側には、台形に突き出た

造り出しがあります。盾形の周濠がめぐりますが、東側は

そのほほ灌漑用ため池の鳥屋池につながります。
宮内庁は、
第28代の宣化天皇の身狭桃花鳥坂上陵として管理します。

周濠がめぐりますが、東側はそのほほ灌漑用ため池の鳥屋池に
つながります。宮内庁は、
第28代の宣化天皇の身狭桃花鳥坂上陵
として管理します。

「日本書紀」によれば、宣化天皇は継体天皇の皇子で、

母は目子媛(めのこひめ)、安閑天皇の同母弟とあります。
また、宣化天
皇の葬送記事に続き、皇后の

橘仲皇女(たちばなのなかつ)とその孺子(わくご・幼児)

が合葬されたことを記します。そこで1876 (明治9)年には
、あわせて皇后陵
にもなります。

航空写真はほぼ真上から撮られていほす。以前に歩いた

奈良市の佐紀古墳群に分布する天皇陵古墳と比べてみます

と、くびれ部が不明瞭で、どちらが前方部かも判然としぼ

せん。実際、後円部の直径と前方部の前端幅は、約75mで

ほぼ同じ長さです。

墳丘裾などでの宮内庁の発掘調査では、古墳時代後期前

葉(6世紀前半)の円筒埴輪や須恵器類が出土しました。

形象埴輪はないようです。墳丘の特徴もあわせて考える

と、この古墳が築かれた時期を示すものでしょう。

前回、益田池について触れました。天長2(825)年に

池が完成すると「益田池碑」が建てられました。碑の実物

は失われましたが、弘法大師空海による碑文が、830年

代に成立した「性霊集」に収められています。

碑文の序に池の周囲の情景があげられています。
「左に竜寺(
りゅうのてら)右に鳥陵、大墓が南に

聳え、畝傍が北に峙(そばだ)つ。来眼(くめ)

精舎が北東に鎮まり、武遮荒壟(むさのあらはか)が
南西に押す」とありま
す。諸説がありますが、この

「鳥睦」は鳥屋ミサンザイ古墳を示すという説が有力です.

鳥屋は、中世の有力な土豪であった興福寺一乗院方の国

民、鳥屋氏の本拠地でした。

そこで、鳥屋の名のおこりも陵名にある「桃花鳥坂」の一

字によるのではないかと推測します。平安時代に「鳥睦

と呼ばれ、また「睦の読みから転じたとみられるミサン

ザイの名を残すことからすれば、古代以来、陵墓としての

認識が在地社会に伝えられていたのでしょう。

西側の丘陵上の南北2km東西2km範囲に、新沢千塚

古墳群が広がりほす。墳丘裾を接するように群集した状態

で総数約600基、大半が直径15mほどの円墳です。群集

墳といいます。築造は5世紀半ばに始まり、6世紀後半に

終わります。

最盛期は鳥屋ミサンザイ古墳の築造時期に重なる6世紀

前半です。丘陵上に次々と小さな古墳が造られる一方、狭

い谷をへだてた東側では鳥屋ミサンザイ古墳の墳丘ができ

あがっていったということになります。

後期古墳の鳥屋ミサンザイ古墳では、周囲に陪塚を配置

するようなことはしぼせん。

鳥屋ミサンザイ古墳と新沢千塚古墳群の被葬者のあいだに

直接の主従関係があったのか、なかったのか。いずれに

しても、陪塚が並ぶ5世紀代の中期古墳とは異なる光景です。

2017−10−13 朝日新聞
  (関西大非常勤講師今尾文昭)