水落遺跡(みずおちいせき)地図





 礎石の縦横(斜めにも)に、列状に大きな石を設置してある。
このことは支柱の礎石を補強するものであり、
かなりの重量物を支える建物であったと考えられる。
続き⇒⇒⇒
近江神宮漏刻⇒⇒⇒
「日本国」誕生の舞台⇒⇒⇒
 水時計を設置した遺跡で、楼の二階は時鐘楼として用いられたとされている。  基壇は花崗岩(かこうがん)の自然石を敷き詰めた一辺が20mもの正方形で、周囲に溝をめぐらしている。
 この石は、造られた当時のままのものである。
 斉明天皇六年(660)に中大兄皇子が造った、わが国初の漏剋(ろうこく=水時計)の遺構であるといわれている。黒漆を塗った木箱などが発掘されている。
 七世紀後半、飛鳥寺の西の一帯において、諸施設の大改造がある。水時計建物とその付属建物、
饗宴場の建物、その間を区画する大型掘立塀など、それらはすべて解体され、柱が抜き取られる。
柱の抜き方には、共通した特徴があり、それらを同じときに解体した事は確かで、時計台の周囲の貼石部、
北の大井戸も埋め立てられ、完全に機能を終焉する。
 建物を解体し、施設を撤去したのは、天智天皇による近江大津京遷都(667)によるものか、或いは、
壬申の乱(672)に勝利した天武天皇が飛鳥再建のための大改造をおこなったのかもしれない。
 斉明天皇6年(660)5月、皇太子中大兄皇子は、
日本で初めての水時計を作って人々に時刻を知らせた。
 当時の日本は、中国の文明を積極的取り入れて、
律令制に基づく中央集権的な国家体制を急速にに整えつつあった。
 時計装置の制作と運用は、
当時の、最高の科学技術を終結した国家的な大事業であった。
 水時計の建物は、塀で囲まれた一郭にあった。
時計を管理し、天文、暦、呪いなども担当した役所であった。
 後方は飛鳥寺
 堅固で、特異な基礎工事を採用している。
受水槽や木樋は、基礎工事の途中で埋め込んでいる。
 正確な時刻の計測は、難しい技術とされる。当時最高の技術で作成
された全天候型の時計が漏刻(水時計)であった。日本で初めて漏刻を
設置したのは、斉明天皇6年(660)5月、皇太子中大兄皇子が、「民を
して時を知らし」めたと伝えた。
 他の例のない堅固な建物が置かれていた。
 その後、漏刻は、近江大津宮に運ばれた。
 漏刻にかかわる漏刻博士は、同じ陰陽寮(おんみょうりょう)に属する
他の博士の倍にあたる2人が任命されている。昼夜にわたり漏刻を管理
するためである。
 水落遺跡のすぐ北にある石神遺跡から出土した、「巳四」「午九」などと
記された木簡がある。
 平安時代の資料によると、時刻を伝える太鼓を打つ回数は、子と午刻
が九つ、巳の刻には四と定められていたから、この木簡は、時を知らせる
太鼓を打つ回数を記したものといわれている。
 常に天文を観測し、それに基づいて暦を定め、時を測り、民に時を授
ける。この責務を果たし、正しい政治を行うことで、古代の天皇は60余州
の国土と民、時そのものまで支配することができた。
 漏剋⇒⇒⇒
漏剋 水落遺跡から北方 水神遺跡から南に延びた
敷石
銅管断面1〜2cm 銅板の接合は銀をはさむ
 水を流すための銅管や木樋(もくひ)のあとが、北にある石神遺跡に向かってのびており、両遺跡の関連性が深い。
 敷石は石神遺跡から延びている敷石と同じ高さとなっている。
 飛鳥京跡苑池→→→














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