飛鳥京跡苑池地図

 
 2021−12−4 飛鳥京跡苑池第15次調査現地説明会
飛鳥京跡苑池の北池と細い溝でつながる水路跡。
あふれる水は西側(右)の飛鳥川に流れる。
 
 後ろに見える丘は甘樫丘
   
 
過去の現地説明会資料⇒ 
 
 

飛鳥京跡苑池

 奈良県高市郡明日香村大字岡に所在する飛鳥時代の

庭園遺跡である。大正5年(1916) 石造物が出土

した地点で、平成11年 (1999) 奈良県立橿原考

古学研究所が発掘調査 (飛鳥京跡第 140 次調査)を

おこなった結果、はじめてその存在が明らかとなった。

平成15年 (2003) には、 日本における庭園の変遷

を知る上で重要な遺跡であるとして、国の史跡および

名勝に指定された。

 これまでの継続的な発掘調査により、ふたつの池(北

池・南池)と水路、掘立柱建物や掘立柱塀などで構成

されることが明らかとなっている。 また、 飛鳥宮跡の

中枢である内郭に隣接することから、宮殿に付属する

庭園であったと考えられている。

(鈴木)

 
 
  飛鳥京跡苑池 第15次現地説明会資料より 
 苑池は7世紀後半に造営され、南北二つの人工池や水路、噴水よう石造物などがあった。 
五角形の南池(東西65m、南北55m)では東西32m、南北15m、高さ1.3mの複雑な曲線を
持つ中島が出土している。
苑池南東には宮殿(飛鳥宮迹630〜694)がひろがっていた。 
 663年の白村江の戦いで日本は唐・新羅連合に敗れ、遣唐使が中断した。一方朝鮮半島を統
一した新羅との交流が活発となり、新羅から王寺や使節がたびたび来日した。
 天武天皇は、外交の舞台として異国の人を招いて歌や舞でもてなし、祭祀や儀式も行う苑池を
改修した。
 苑池の造営が始まったとされる斎明天皇の時は島はまだ小さかったが、天武天皇の時に島が
曲線を描く姿に拡張され、舞台が新設された。  
 中島を取り囲むように直径0.9〜1.2mの円形の穴が計120発見されており、これにより高
床式舞台のような施設が東西35m、南北17mの範囲でつくられていた。
 南岸でも、東西15m、南北10mで直径1mの柱穴が計40個確認されている。東岸でも柱穴が
発見されているが、観客席だった可能性がある。

 国内初の本格的な宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村の「飛鳥京跡苑池」(国史跡・名勝)につ
いて、南北二つの人工池のうち北池か
ら、全長約11.5mに及ぶ石組みの溝と石敷きの遺構が
みつかった。

県立橿原考古学研究所(橿考研)が8日発表した。 7世紀後半にわき水を流す流水施設として造
られたとみられ、古墳時代から続く「水のまつ
り」の宮廷儀式を行っていた可能性が高まった。最
古の宮廷庭園は、
観賞用の南池と祭祀用の北池という性格やデザインの異なる二つの池で構成
されたことが初めて明らかになった。

 橿考研によれば、今年5月から北池の北東部を発掘調査し、南北約13m、東西約8.5mの
範囲で40〜70cm
大の石が丁寧に敷き詰められた遺構が出土した。石敷きの中央部には、二
つの
正方形の石組みの「桝」(1辺0.8〜1.3m深さ0.2〜0.5m)と、東西方向の石組みの溝(幅0.8〜
0 .3m)も
出土。 溝の底には漏水を防ぐため、れんが状の砂岩も敷かれていた。 升にたまったわ
き水が溝に流れ込む仕組みで、橿考研は、清浄な水を流すことに何らかの意味があったと分析
する。

 木下正史・東京学芸大学名誉教授(考古学)は「一帯は聖なる空間で天皇らが水を使った祭祀
を行った可
能性が高い。中国由来の苑池の思想に日本古来の自然崇拝の考えを融合させた日

本文化の原点と言える場所なのではないか」と話す。
  2019−8−9  朝日新聞
(田中祐也)


 日本初の皇居に隣接した宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村の飛鳥京跡苑池(国史跡・名勝)
の北池か
ら、謎の流水施設が姿を現した。約1300年前、激動の東アジア情勢を受け、中央集権
国家を目指し始めた
飛鳥時代後半の日本。国家中枢施設が林立していた飛鳥の庭園で、一体
何が行わ
れていたのか。

 「天皇が、儀式や占いなどの前に身を清める『みそぎの場』だったのでは」猪熊兼勝・京都橘大
名誉
教授(考古学)はそう語る。苑池は南北二つの池からなり、北池は水深約2〜3mのすり鉢状
の形状とさ
れてきた。 だが、今回の発掘調査で、丁寧に加工された想定外の石敷き遺構が出
し、北池の北東隅は水に
つからない空間だったことが判明した。天皇が階段で石敷きに降り、溝
に流れる
水をすくったり、体にかけたりする。そんな光景を猪熊さんは想像する。

 一方、県立橿原考古学研究所の岡林孝作・調査部長は、当時辺境とされた地域の人々を服属
させる儀式に
使われたとみる。「日本書」は斉明天皇(在位655〜661) 以降、、苑池の北に位
置する「槻の木の広
場」で東北地方の蝦夷や南九州地方の隼人らを接待したと記す。書紀には
蝦夷の首領が川の水で口を清め、服属の誓いをした(581 年)という記述もあり、苑池でも同じ儀
式が行われた可能性を指摘する。

 苑池から約400m北東の丘陵に広がる明日香村の酒船石遺跡(国史跡)で出土した亀形石造物
との類似
性を指摘する声もある。

 辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は中国古来の「神仙恩想」と関連づけて説明。不老不死を
象徴する
亀を模した石造物にわき水をためて飲めば、永遠の命と支配の力を得ることができる
とされ、天皇個人の国
家支記に関わる祭祀の場だったと指摘する。

 だが、苑池は皇居に隣接し、亀も登場しないという違いがある。「同じ水を利用したまつりでも、
酒船石
遺跡では中国的な色彩が強い一方で、苑池では王族や貴族も含め、古墳時代以来 続い
てきた日本古来のまつ
りが行われ、使い分けていたのでは」とみる。
  2019−8−9  朝日新聞
(渡義人、田中祐也)


 
 2019−8−9 朝日新聞より

飛鳥京跡苑池

 飛鳥時代の天皇の皇居だった飛鳥宮跡の北西に隣接する宮廷庭園。南北280m
東西100mの範囲に
南北二つの池や水路、建物、塀があり、南池では噴水用の石造
物や水上舞台と
みられる痕跡などが確認された。 斉明天皇の時代に造られ、天武天皇
の時代に改修されたとみられる。

 奈良県明日香村の飛鳥京跡苑池(国史跡,名勝)で石積みの水路跡が見つかり、これ

まで発見された池と合わせて国内初とされる本格的な宮廷庭園主要部の全容がほぼ明ら

かになった。1999年に確認された苑池の発掘調査は今年度で一区切りとなる。県立橿原
考古学研究所(橿考研) が2日、発表した。

 苑池は7世紀中ごろ、斉明天皇の時代に造営が始まり、のちの天武天皇の時代(7世紀
後半以降)に大幅に改修されたと考えられている。南北約280m、東西約100mの範囲に、
庭園の中心となる北池(南北約52m、東西約36m)と南池(南北約53m、東西約63m)、
水路や建物などがあったとみられる。北池は祭礼に用いる「流水施設」があったと推定さ
れる。

 相原嘉之・奈良大准教授(日本考古学)は「流水施設は(祭祀遺跡の)酒船石遺跡

(明日香村)と基本構造は同じだ」と指摘する。

 今回の発掘で、水路の南端は直接は北池にはつながらず、ほぼ垂直の石積みで護岸

され、高さは約1〜1.2mとわかった。水路南端と卵形の水面の間には石組みの溝

(長さ約14m、幅約0.6m)も確認された。北池の水はこの溝で水路に流れ込んで

いたと考えられるという。

 木下正史・東京学芸大名誉 教授 (考古学)は 「水路は幅も広く丁寧な石組みの立派な

つくり。単純な排水溝ではない」と話し、観賞用の可能性も指摘する。
  2021−12−3 朝日新聞  (清水謙司)

 飛鳥時代の庭園遺跡・飛鳥京跡苑池(国史跡,名勝、明日香村)で4日、県立橿原考古学研
究所(橿考研)の新たな発掘調査の成果を紹介する現地説明会が始まった。国内初とされる

本格的な宮廷庭園跡の遺構を間近で見学できる。

 1999年に発見された苑池は、女帝・斉明天皇の時代の7世紀中ごろに造営が始まったとさ
れる。形や性格の異なる二つの池(北池・南池)や水路、建物、塀などが確認されている。

 橿考研は今年度の調査で、石積みで護岸された水路の南端部を検出した。水

路の南端は直接には北池につながらないことが分かった。北池の水は南北方向の

石組みの溝を通して、水路に排水したらしい。 

 飛鳥は「石の都」とも呼ばれる。この日は古代史ファンたちが多く訪れ、石が多用された
水路や北池の遺 構に熱いまなざしを向けていた。橿原市の浦野芳彦さん(78)は「水路は
飛鳥川までつながっていたんだろう。飛鳥の石の文化を改めて感じた」と話した。
  2021−12−4  朝日新聞 (清水謙司)

 飛鳥京跡苑池(奈良県明日香村)の発掘がこのほど、一区切りを迎えた。調査を通じ

て、7世紀の王宮の庭と一体になった巨大な池が浮かびあがった。 古代の都で貴人たち

がめでた庭園とは、どんな姿だったのか。

 飛鳥時代の苑池の調査は1999年に始まった。南北に分かれた池の底には無数の石

が整然と敷かれ、私たちがいま目にする自然を取り込んだ日本庭園の池とはずいぶん趣

が違う。かつて南池は観賞用、北池は貯水用とも言われたこともあったが、近年は北

池で汀(みぎわ)にのぞむ階段状の石組み遺構が確認されて祭祀との関連が指摘されるなど、
最新の成果は再考を迫っている。

 その源流はどこなのか。

 10月にオンラインで開かれた第37回かんだい明日香まはろば講座。発掘に携わってき

た奈良県立橿原考古学研究所 の鈴木一議さんによれば、ルーツには大きく@古墳時代以

来の国内での系譜A海外由来、の二つが考えられるそうだ。

 もし@なら、古来の「水」への信仰が関係した可能性も。古墳時代にさかのぼれば導水施設
をかたどった埴輪があるし、弥生時代と古墳時代の過渡期にあたる3世紀の纏向遺跡(奈良
県桜井市)でもそれらしい祭和の痕跡がみら れるという。飛鳥地方に点在する猿石など不思
議な石像群もつながりがあるのだろうか。

 一方Aだとすれば、起源は朝鮮半島や中国か。古くは紀元前にさかのぼる中国股代の

遺跡でも池の遺構が見つかっている、と鈴木さん。「水の信仰と大陸の苑池が結びつ

き、伝統的信仰と最新思想の融合があったのではないか」。国内外の影響のもとに飛鳥の 

苑池は誕生した、というわけだ。

 朝鮮半島に詳しい井上主税関西大教授によると、苑池は5世紀から7世紀にかけて

高句麗や百済、新羅にも登場するようで、方形のものが多いという。代表例は新羅の王

都があった韓国慶州の月池(雁鴨池)で、神仙思想も盛り込まれたようだ。一方、飛鳥の苑池
には洲浜の多用や浅い水深など「日本独特の在来文化もあった」といい、苑池遺構の探究
には東アジア的な視点の重要性を指摘した。

 ところで、南池には複数の柱穴が確認されている。ひょっとしたら床を張った水上舞

台かもしれない。 人々が岸から見守るなか、ここで歌舞が催されたのだろうか。苑池は

ユネスコの世界遺産をめざして整備中。古代の庭園の華やかな光景が、令和の世によみ

がえるかもしれない。
   2021−12−9  朝日新聞(編集委員,中村俊介)  




弥勒石地図

   
 
 この「弥勒石」は真神原の西を流れる飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石である。
石には仏顔面もほとんどないが、わずかに目と口とみられる部分が加工されているだけ
である。
 弥勒石を拝むと下半身の病気が治るといういい伝え があり、今も地元や周辺の人々の
信仰を集めるとともに、「ミロクさん」と呼ばれている。




漏剋

 水時計は正式には「漏剋(ろうこく)」と呼ばれ、一定の速度でたまる水の量によって時計を計る
装置のこと。中国では、2世紀に受水槽と上下二段の水槽を持つ水時計が発明された。
 構造は、ものさしを浮かべた最下段の受水槽に、上の水槽からサイホンを通って一定時間に一
定量の水が滴り落ち、浮き上がったものさしの目盛で時刻を計る。しかし、上部の水槽の水位が
変われば水圧も変わり、滴り落ちる水量も一定でなくなってしまう。そこで、さらに上部へ水槽を階
段状に重ね、水を補充し、水位の変動をおさえる多段式の構造へと改良されていった。上部の水
槽は出土されていないが、同時代の中国・唐で考案された四段式の水時計の技術が導入されて
いた可能性がある。
 基壇内部には、給排水用の「木樋暗渠(もくひあんきょ)」(地下に設けられた木製の水路)が縦
横に走り、木樋と連結した大鋼管や、途中で分岐した小鋼管が埋没された状態で出土し、地下か
ら地上へ水を揚げていたことも分かっている。
 小鋼管の直径は約1.2cm(内径0.9cm)。非常に純度の高い銅で作られていた。作り方は小
銅管は幅4cm、長さ80cm、暑さ1mm前後の銅板を、丸めて管状にし、重ね合わせた部分を銀
ロウという銀と銅の合金で接合した。
 更に、小銅管はその周囲を骨粉と混ぜた漆と木材で覆われ、水漏れや凍結防止対策が施され
ていた。また、銅管の材料に含まれる鉛の分析によって大鋼管と小鋼管では、異なる鉱山の銅を
使用していた。
 地中に埋められていた配水管の制作技術やサイホン原理の応用技術からみても、高い技術で
あった。また、銅管や木管は北へも続いていることから、石神遺跡でみつかった斎明朝の迎賓館
に設置された須弥山石石人僧の噴水施設にも、これらの技術は利用されていた。























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