飛鳥京跡苑池

 苑池は7世紀後半に造営され、南北二つの人工池や水路、噴水よう石造物などがあった。 
五角形の南池(東西65m、南北55m)では東西32m、南北15m、高さ1.3mの複雑な曲線を
持つ中島が出土している。
苑池南東には宮殿(飛鳥宮迹630〜694)がひろがっていた。 
 663年の白村江の戦いで日本は唐・新羅連合に敗れ、遣唐使が中断した。一方朝鮮半島を統
一した新羅との交流が活発となり、新羅から王寺や使節がたびたび来日した。
 天武天皇は、外交の舞台として異国の人を招いて歌や舞でもてなし、祭祀や儀式も行う苑池を
改修した。
 苑池の造営が始まったとされる斎明天皇の時は島はまだ小さかったが、天武天皇の時に島が
曲線を描く姿に拡張され、舞台が新設された。  
 中島を取り囲むように直径0.9〜1.2mの円形の穴が計120発見されており、これにより高
床式舞台のような施設が東西35m、南北17mの範囲でつくられていた。
 南岸でも、東西15m、南北10mで直径1mの柱穴が計40個確認されている。東岸でも柱穴が
発見されているが、観客席だった可能性がある。

 国内初の本格的な宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村の「飛鳥京跡苑池」(国史跡・名勝)につ
いて、南北二つの人工池のうち北池か
ら、全長約11.5mに及ぶ石組みの溝と石敷きの遺構が
みつかった。

県立橿原考古学研究所(橿考研)が8日発表した。 7世紀後半にわき水を流す流水施設として造
られたとみられ、古墳時代から続く「水のまつ
り」の宮廷儀式を行っていた可能性が高まった。最
古の宮廷庭園は、
観賞用の南池と祭祀用の北池という性格やデザインの異なる二つの池で構成
されたことが初めて明らかになった。

 橿考研によれば、今年5月から北池の北東部を発掘調査し、南北約13m、東西約8.5mの
範囲で40〜70cm
大の石が丁寧に敷き詰められた遺構が出土した。石敷きの中央部には、二
つの
正方形の石組みの「桝」(1辺0.8〜1.3m深さ0.2〜0.5m)と、東西方向の石組みの溝(幅0.8〜
0 .3m)も
出土。 溝の底には漏水を防ぐため、れんが状の砂岩も敷かれていた。 升にたまったわ
き水が溝に流れ込む仕
組みで、橿考研は、清浄な水を流すことに何らかの意味があったと分析
する。

 木下正史・東京学芸大学名誉教授(考古学)は「一帯は聖なる空間で天皇らが水を使った祭祀
を行った可
能性が高い。中国由来の苑池の思想に日本古来の自然崇拝の考えを融合させた日

本文化の原点と言える場所なのではないか」と話す。
  2019−8−9  朝日新聞
(田中祐也)


 日本初の皇居に隣接した宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村の飛鳥京跡苑池(国史跡・名勝)
の北池か
ら、謎の流水施設が姿を現した。約1300年前、激動の東アジア情勢を受け、中央集権
国家を目指し始めた
飛鳥時代後半の日本。国家中枢施設が林立していた飛鳥の庭園で、一体
何が行わ
れていたのか。

 「天皇が、儀式や占いなどの前に身を清める『みそぎの場』だったのでは」猪熊兼勝・京都橘大
名誉
教授(考古学)はそう語る。苑池は南北二つの池からなり、北池は水深約2〜3mのすり鉢状
の形状とさ
れてきた。 だが、今回の発掘調査で、丁寧に加工された想定外の石敷き遺構が出
し、北池の北東隅は水に
つからない空間だったことが判明した。天皇が階段で石敷きに降り、溝
に流れる
水をすくったり、体にかけたりする。そんな光景を猪熊さんは想像する。

 一方、県立橿原考古学研究所の岡林孝作・調査部長は、当時辺境とされた地域の人々を服属
させる儀式に
使われたとみる。「日本書」は斉明天皇(在位655〜661) 以降、、苑池の北に位
置する「槻の木の広
場」で東北地方の蝦夷や南九州地方の隼人らを接待したと記す。書紀には
蝦夷の
首領が川の水で口を清め、服属の誓いをした(581 年)という記述もあり、苑池でも同じ儀
式が行われた
可能性を指摘する。

 苑池から約400m北東の丘陵に広がる明日香村の酒船石遺跡(国史跡)で出土した亀形石造物
との類似
性を指摘する声もある。

 辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は中国古来の「神仙恩想」と関連づけて説明。不老不死を
象徴する
亀を模した石造物にわき水をためて飲めば、永遠の命と支配の力を得ることができる
とされ、天皇個人の国
家支記に関わる祭祀の場だったと指摘する。

 だが、苑池は皇居に隣接し、亀も登場しないという違いがある。「同じ水を利用したまつりでも、
酒船石
遺跡では中国的な色彩が強い一方で、苑池では王族や貴族も含め、古墳時代以来 続い
てきた日本古来のまつ
りが行われ、使い分けていたのでは」とみる。
  2019−8−9  朝日新聞
(渡義人、田中祐也)


 
 2019−8−9 朝日新聞より

飛鳥京跡苑池

 飛鳥時代の天皇の皇居だった飛鳥宮跡の北西に隣接する宮廷庭園。南北280m
東西100mの範囲に
南北二つの池や水路、建物、塀があり、南池では噴水用の石造
物や水上舞台と
みられる痕跡などが確認された。 斉明天皇の時代に造られ、天武天皇
の時代に改修されたとみられる。









漏剋

 水時計は正式には「漏剋(ろうこく)」と呼ばれ、一定の速度でたまる水の量によって時計を計る
装置のこと。中国では、2世紀に受水槽と上下二段の水槽を持つ水時計が発明された。
 構造は、ものさしを浮かべた最下段の受水槽に、上の水槽からサイホンを通って一定時間に一
定量の水が滴り落ち、浮き上がったものさしの目盛で時刻を計る。しかし、上部の水槽の水位が
変われば水圧も変わり、滴り落ちる水量も一定でなくなってしまう。そこで、さらに上部へ水槽を階
段状に重ね、水を補充し、水位の変動をおさえる多段式の構造へと改良されていった。上部の水
槽は出土されていないが、同時代の中国・唐で考案された四段式の水時計の技術が導入されて
いた可能性がある。
 基壇内部には、給排水用の「木樋暗渠(もくひあんきょ)」(地下に設けられた木製の水路)が縦
横に走り、木樋と連結した大鋼管や、途中で分岐した小鋼管が埋没された状態で出土し、地下か
ら地上へ水を揚げていたことも分かっている。
 小鋼管の直径は約1.2cm(内径0.9cm)。非常に純度の高い銅で作られていた。作り方は小
銅管は幅4cm、長さ80cm、暑さ1mm前後の銅板を、丸めて管状にし、重ね合わせた部分を銀
ロウという銀と銅の合金で接合した。
 更に、小銅管はその周囲を骨粉と混ぜた漆と木材で覆われ、水漏れや凍結防止対策が施され
ていた。また、銅管の材料に含まれる鉛の分析によって大鋼管と小鋼管では、異なる鉱山の銅を
使用していた。
 地中に埋められていた配水管の制作技術やサイホン原理の応用技術からみても、高い技術で
あった。また、銅管や木管は北へも続いていることから、石神遺跡でみつかった斎明朝の迎賓館
に設置された須弥山石石人僧の噴水施設にも、これらの技術は利用されていた。












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