大神神社摂社

綱越神社
大直禰子神社(若宮社)
神坐日向神社
活日神社
磐坐神社
狭井神社
神御前神社
率川神社
檜原神社



綱越神社


地図
祭神 祓戸大神
 切妻造、瓦葺の拝殿の奥に春日造り、檜皮葺の本殿がある。
 古来より、大神祭の前には、神職がこの神社に参拝し、禊祓(みそぎはらえ)の神事を行ってきた。
暑い夏を元気に乗り越えようとする神事夏越しの祓がおこなわれることに由来し、
社名の綱越は夏越しの転訛であるといわれている。
 磐座は高さ1m、底辺が2mほどある三角形の石で三輪山中と同じ「はんれい岩」である。
現在は初瀬川からやや離れているが、道の向こうは一段低くなっており、
古代はこの磐座が台地(禁足地)の端だった。
纏向遺跡⇒⇒⇒
纏向⇒⇒⇒
 大鳥居の南側に鎮座。お祓いの神。古くから御祓さん(おんぱら)と親しまれている。おんぱらは、お祓いが訛ったもので31日の例祭では、
宮司以下全員で大祓詞(おおはらえのことば)を奏上する。
神馬引き(しんめ)、茅の輪くぐり(ちのわ・夏越祓なこしのはらえ・おんぱら祭)などの古式を残した例祭が行われている。(7月31日)
茅の輪くぐりについて
 一晩の宿を乞うた素戔嗚尊に、裕福な巨旦将来(こたんしょうらい)はそれを断り、貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)は親切にもてなしたところ、
素戔嗚尊は疫病から逃れる方法として茅の輪を腰につけることを蘇民将来に教える。後に疫病が蔓延した時、蘇民将来の家族だけが災厄を免れ
たとされる。やがて茅の輪は夏越の祓と結び付き、神社や個々の家でも行われ、大きな茅の輪をくぐる風俗へ発展した。



大直禰子神社(おおたたねこ・若宮社)地図

 大直禰子神社(若宮社)祭神は、
大直禰子命、少彦名命活玉依姫命(いくたまよりひめ)である。
若宮さんと呼ばれ親しまれている。
大神神社第二鳥居の左を入る。

 大物主神の子である大田田根子命を祀っています。『日本書紀』によると、崇神天皇
の時代に疫病
が蔓延し、大田田根子命はそれを鎮めるために大物主神を祀った祭主
であるとあります。元は、
神神社の神宮寺であった大御輪寺でしたが、明治時代の
神仏分離令により、若宮社となりました。

  大田田根子命
リョウサンの池  オダマキの杉  崇神天皇磯城瑞籬宮址 
 本殿(重文)は、弘安八年(1285年)に造営された。
大神神社に、奈良朝いらい神宮寺的な寺院が設けられて、
それを大御輪寺(だいごりんじ)といった。
拝殿は、大御輪寺の本殿を利用したもので、飛鳥時代の材木が使用されている。
そのため、建物がお寺のかたちになっている。

成願稲荷神社参照⇒⇒⇒
 この寺にあった奈良朝時代の乾漆の観音像があった。
神仏分離令で、聖林寺に運ばれて残っている、日本の三大十一面観音の一つでもある
或いは平等寺のものであったかもしれないと言われている。
 他にも、数ある地蔵尊の中で美術的評価の頂点に立ち、単独指定の唯一の国宝であり、法隆寺大宝蔵院にある木像地蔵菩薩立像があった。
この地蔵は十一面観音の脇侍であったが、大御輪寺が神仏分離で廃寺となって、法隆寺に渡った。 
大国御魂神 オオヤマトの古墳・宮址と三輪山祭祀 
天照大神 三輪山磐座
檜原神社 十一面観音(国宝)
穴師坐兵主神社 伊勢神宮の起源
大神神社  大直禰子神社
豊鍬入姫宮 箸墓古墳
崇神天皇 大和神社
垂仁天皇 王権を確立した崇神天皇
十一面観音   
  {おだまき杉」 

 若宮社(大直禰子神社)の本

殿は国重要文化財で、その鳥居の前には「おだまき杉」が.屋根に守られ根元た根本だけが残る。


江戸時代に書かれた
三輪明神独り案内におだまき杉の
古木ありと記される三輪の
七本杉の一つです。
七本杉には、このほかに二本杉、
衣掛杉、門杉、志るしの杉
燈明杉、飯杉がありました。
おだまきの杉⇒⇒⇒ 


神坐日向神社

神坐日向神社
(みわにいますひむかい)
地図

祭神は日向御子神である。
延喜式神名帳」に記載された古神である。
社殿は銅板葺き春日造り、
神社建築では珍しい北向きになっている。
以前は三輪山の頂上に鎮座していた。
御子森(みこもり)と呼ばれる三輪城跡にある。
この森の名称は、
大物主神の御子神を祀ることに由来するという。




活日神社地図

 
祭神である高橋活日神は、大物主命のお告げにより、一夜で良質の酒を造って献上したと
伝えられる杜氏の祖神である。
土地の人々はこの神を一夜酒(ひとよざけ)さんと呼んでいる。


磐座神社地図


 社殿がなく、磐座が瑞垣で囲まれただけの神社で、
古代の自然崇拝の一端をみることができる。
 祭神 少彦名神

狭井神社地図

動画    狭井神社⇒⇒⇒
 狭井神社へ⇒⇒⇒ 
 狭井神社から大神神社⇒⇒⇒
 全動画⇒⇒⇒    天理から桜井の順⇒⇒⇒
   
 大和神社の別宮であったが衰退微し、
明治になって大神神社によって復興され、
いまのように形を整えた。
そこに薬井戸とよぶ清水がいまもわいている
ところをみると、ここが山の辺の道の一部分
だったと思われる。古代の道には必ず泉が
沿っていたからである。
 三輪山(神体山)への登拝口、
社務所で手続きをして登拝できる。
三輪山登拝
 狭井神社の境内に三輪山への登拝口がある。向かいの受付に「入山者の心得」が掲げられている。
ここで入山を願い出て「三輪登拝証」となるタスキをつけ、祓串(はらいぐし)で自ら祓い清めて、入山
することができる。往復約2時間を要するが、原始宗教の神秘的な雰囲気に浸り、心身をリフレッシュ
することが出来る。
 
   
  延喜式内社
 大神荒魂神(あらみたま)を祭る大神神社の摂社である。
 大神神社では大物主(和魂・にぎたま)を、狭井神社では大神の荒魂を祀るとされている。
 大物主神・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)・勢夜多々良姫命(せやたたら)・
事代主命の五座。
 社殿は西面し、本殿・拝殿・霊水がある。
 当社は垂仁天皇の時創祀したと伝えられる古社で、大三輪神社と当社で鎮花祭が4月18日
におこなわれ、疫病を鎮める祭りである。
 別名「狭井神社」「花鎮社(けちんしゃ)」俗に「シズメさん」と呼ばれている。

 三輪山信仰と大神神社の神事とを、本格的に、作品の主題との深い

開わりにおいて書いてあるのは、三島由紀夫の『豊饒の海』第二巻

「奔馬」(昭和四十四年二月)である。

 三島氏は、古神道研究のため、昭和四十一年六月率川神社の三枝
祭に参列。ついで親友のコロンピヤ大学教授ドナルドキー:氏と八月

二十二日再度来社、社務所に三泊参籠した。二十三日、三輪山の

裾山の辺の道を散策。二十四日、念願の三輪山頂上へ登拝。この日

お山を下りた後、拝殿で神職の雅楽講習終了奉告祭に参列。感銘を

受けた氏は、直ちに色紙に「清明」と認めた。後日、左の

感懐が寄せられた。

 大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱か

れて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります。

 又、お山へ登るお許しも得まして、頂上の大古からの磐座をおろがみ

そのすぐ上は青空でありますから、神の御座の裳裾に触れるやうな

感がありました。東京の日常はあままりに神から遠い生活でありますか。

日本の最も古い神のおそばへ近寄ることは、一種の畏れなしには

出来ぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へ

られましたことは、洵にはかり知れぬ神のお恵みであったと思います。

 山の辺の道、杉の舞、雅楽もそれぞれ忘れがたく、又、御神職が、

日夜、清らかに真摯に神に仕へておいでになる御生活を目のあたり

にしまして、感銘洵に深きものがございました。

 ここに、三島由紀夫と三輪の大神様との御神妹を鑑み,作家三島

由紀夫揮毫の「清明」記念碑を篤信家によって奉納建立する。

  平成十六年八月吉日 大神神社社務所

 
清明  三島由紀夫
三輪山磐座  大国主命   三島由紀夫没後50年 
狭井神社 和田萃   桧原神社 和田萃   
 狭井神社の近くに「神武天皇狭井河之上顕彰碑」という大きな石標が立っている。
神武天皇の皇后媛踏鞴五十鈴(ひめたたらいすず)姫の宮があり、
天皇はそこで「芦原の醜(しけ)こき小屋にすが畳いささやしきて吾二人寝し」とう
たったと古事記に出ている。そのとき「狭井河よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さ
やぎぬ風吹かむとす」とも。
その狭井川が石標のほとりを流れる小川だと伝承されている。⇒⇒⇒
 境内を少し下ったところにある鎮女池(しずめいけ)のほとりには、三島由紀夫が
大神神社を訪れ、三輪山を登拝したのちに揮毫した色紙をもとにした「清明」
の碑が立つ。
 さい(佐韋)とは、山百合の古名。三枝祭さいくさのまつり)で知られている
率川(いさかわ)神社ともつながりが深い。
 
三輪山から湧き出る御神水(ごこうすい)があり、
病気の平癒に霊験あらたかとされ、
この御神水を汲みにくる参拝者、終日絶えることはありません。


神御前神社(かみのごぜん)地図

   
大神神社摂社
(ご祭神)
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)   
(由 緒)
 ご祭神は第7代孝霊天皇(こうれいてんのう)のお子様で、大物主大神
神託(しんたく)を受けられる巫女として、崇神天皇のまつりごとを助けら
れたことが『日本書紀』に記されています。また『日本書紀』は百襲姫命
が後に大物主大神の妻となられますが、悲劇的な別離となり箸墓古墳
葬られるという箸墓伝説を伝えています。この神社の社殿は西方、
百襲姫命の陵墓である箸墓古墳と正対しています。

 また、鎮座地の茅原は崇神天皇が百官を率いて八百万神を祭った
「神浅茅原(あむあさじがはら)」の地とも言われ、三輪山を拝む好適地です。

  例祭日10月5日  
 
   

神浅茅原伝承地 (かんあさち はら・大字茅原)

 大字茅原に比定されている。「日本書記」によれば崇神天皇七年、国内に多い災害を神

祇の咎めと考えられた天皇は、神浅茅原に八十万神を集えてト問せられたところ、大物主

神が倭迩迩日百襲姫命に神憑って、その祭祀をもとめられた。そこで神孫太田田根子を

茅淳県陶邑(ちぬのあがたすえのむら)より迎え、三諸山の大物主神を祀るることになった
という伝承地である。  

率川神社(いさがわ)地図

(子守明神)

 祭神 
  御父神  狭井大神(さいのおおかみ)  
  御子神  媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめのみこと)
  御母神  玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)

媛蹈鞴五十鈴姫命:大物主大神の娘、神武天皇の皇后
左殿    中殿    右殿
御父神  御子神  御母神
左末社      中摂社       右末社 
住吉社     率川阿波神社    春日社
 平城遷都以前に創祀された(飛鳥時代、593年創建)奈良市内で
最も古い神社。
 春日氏の本拠地に大神神社の摂社として当社があり、
三輪から離れた土地に大神神社の摂社が置かれたことや、
朝廷が当社にまつわる三枝祭を重んじたことは、
三輪と春日とのつながりの重要性を示す。
春日氏はいち早く、三輪山の祭祀を受け容れることで
親朝廷の立場を表明した。
 大和の大部分の神社の祭祀は、各社の神官によって主催されたが、
広瀬の大忌祭(おおいみさい)、竜田の風神祭(かざかみさい)、
大神(おおみわ)の鎮花祭(はなしずめまつり)、
大神・率川(いさかわ)の三枝祭(さいぐさのまつり)だけは、
朝廷の神祇官の手でおこなわれた。
住吉社 祭神
 上筒之男命 中筒之男命 底筒之男命
率川阿波神社 祭神
 事代主命
春日社 祭神
 建武雷之男神、姫大神、経津主命、
 天児屋根命、春日の4神
率川付近に開化天皇宮跡・春日率川(かすがのいざかわ)があった。 
   
 三枝祭 (6月17日)
 奈良市最古とされる当社は、古くから子守明神と慕われてきた。
 三枝祭は通称「ゆりまつり」と言われている。ササユリは、
媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ・神武天皇皇后)の故郷三輪山周辺に咲いて
いて好んだ花とされ、厄除けの意味を持つ。
 ササユリを手にし、神楽装束に身を包んだ巫女が舞う華やかな祭り。
ササユリで彩った酒樽を神前に供え、無病息災を祈る。
大宝律令(701)にも国家が行う祭祀と記された古い歴史を持つ。
 ササユリを持ち神楽を舞う巫女も、伝統を守るため代々あでやかな技が引き継がれている。
 大神神社の20人以上いる「10代、20代の巫女の中から、毎年4人が大役に選ばれる。
笹ゆり⇒⇒⇒

率川神社は、大神神社(桜井市)の摂社だ。593年の創建で、奈良市最古の神社と言われる。

6月17日、ササユリで飾った酒だるを神前に供えて無病息災を祈る三枝祭があった。

祭神・媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)が住んでいた三輪山のふもとにサ

サユリが咲いていたという故事にちなむ祭りで、1300年以上の歴史があるという。

ユリの花を手にした巫女が雅楽に合わせて神楽を奉納した。ふだん静かな境内にあふ

れた参拝者が、モニターに映し出された映像を見つめた。

境内を飾るササユリは前日に大神神社から届く。三輪山周辺で一度は姿を消しかけた

花を、大神神社の信者が努力を重ねて復活させた。

ササユリは中部地方から九州にかけて自生する日本固有種だ。
1960年代ごろまで
は三輪山付近にも数多く咲いていたが、環境悪化のほか、
荒らされたりして激減した。

このままでは祭りが続けられなくなる。大神神社信者の農家でつくる「豊年講」のメンバーが
そんな危機感を持
ち、93年に「ささゆり奉仕団」を結成。境内で栽培を始めた。
発芽率が低く、開花ま
で6年はかかる。土づくりから試行錯誤を重ね、
99年によ
うやく最初の花が咲いた。
内のユリ園は5〜6月ににぎわう名所になった。

昨年はイノシシに球根を荒らされた。豊年講講元の吉岡秀義さん( 73 )は「獣害対策な

どまだまだ工夫が必要ですが、なんとか軌道に乗ってきたところです」と話す。
2017−7−3 朝日新聞より

欠史八代  三島由紀夫没後50年  


 



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