寺川と飛鳥川流域 千田稔 より

 寺川の源流は奈良盆地南東端の多武峰とされ、橿原市、田原本町、三宅町、川西町などを経て大和
川に流れ込む。
 桜井市内の寺川周辺には6世紀半ばの磯城島金刺宮欽明天皇)、倉梯宮(崇峻天皇)など宮殿伝承
地や上之宮遺跡(聖徳太子が青年期を過ごした宮殿上宮の可能性がある)などが点在する。
 6〜7世紀の寺川流域を代表する人物として、小姉君(おおあねのきみ・蘇我稲目の娘、欽明天皇の
皇妃)がいた。
 小姉君は聖徳太子の母の穴穂部間人皇后(用明天皇の皇后)や崇峻天皇を生むが、その系統は
崇峻天皇は殺害され、聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)も自殺に追いこまれる
不幸が重なる。
 奈良盆地を南北に流れる飛鳥川流域には、飛鳥宮跡や蘇我氏の根拠地とされる橿原市曽我町など
飛鳥時代を彩る重要な拠点が多い。
 飛鳥川を代表する人物には、堅塩媛(きたしひめ・欽明天皇皇妃)がいた。堅塩媛は推古天皇を生み、
堅塩媛系が舒明天皇やその息子の天智天武両天皇につながる飛鳥時代の本流を形成し、「表舞台
の飛鳥川、裏舞台の寺川」と想定した。
 寺川から引いた灌漑用水で奈良盆地の水田開発を積極的に進めた秦氏の活躍がある。秦氏は5世紀
頃に新羅から渡来し、聖徳太子を支援した。
 蘇我氏本家筋の堅塩媛は百済系と小姉君(聖徳太子の祖母)は新羅系と関わり、対立を深めた。
 田原本町の寺川流域には室町時代に能楽を大成した世阿弥が学んだとされる補厳寺(ふがんじ)、
大和猿楽四座の金春座(こんぱる)を確立した金春禅竹(ぜんちく)の家が門前に建てられたと伝わる
秦楽寺(じんらくじ)がある。
 舞ノ庄遺跡では室町時代の能面も出土した。また、観世座発祥の地は川西町、室生座は桜井市、
金剛座は斑鳩町とされる。
 秦氏の水田開発による経済的豊かさが、新しい文化を呼ぶ源泉になった。
 
 寺川 地図