小墾田宮跡(おはりだのみやあと)地図
(古宮遺跡)

小墾田宮跡から西北西に畝傍山を望むる。 豊浦駐車上 小墾田宮跡から耳成山を望む。
 現在は駐車場になっている場所でも7世紀前半から後半にかけての建物群が見つかっており、
広い範囲に遺跡が広がることも確認されている。
 しかし、小墾田については昭和62年(1987)に、飛鳥川を隔てた東側にある雷丘東方遺跡で、
奈良時代の井戸から「小治田宮」の墨書された土器が多数出土したことから、
すくなくとも奈良〜平安時代の小治田宮については雷丘東方遺跡であることが判明した。
 これらの成果から、推古天皇の小墾田宮も雷丘周辺にあったこと考えられるようになった。
よって古宮遺跡は蘇我氏に関わる庭園とする説が有力となっている。 推古天皇の11年(603)に豊浦宮から遷った宮跡で、
推古天皇が亡くなるまで25年間過ごした宮とされる。聖徳太子もここで政務をとられ、奈良時代後半まで維持された。
 しかし、推古天皇の時代の小墾田宮まだみつかっていないが、山田道に面した北側が有力な候補地となっている。石神遺跡の東の隣接地には
微高地があり、推古朝の塀や建物の一部が確認されている。
 宮は豊浦集落の北西と考えられ、建物や庭園跡が発掘されている。

小治田:奈良時代の蘇我氏の別荘
小墾田;推古の時代、まだ見つからず。
 小墾田は25年間、推古帝の帝都であった。つぎの舒明帝は、飛鳥に遷都をするが、次の皇極帝(在位642〜645年)は、また小懇田に帰ってくる。
 そして、そこを都としつつも、帝は、飛鳥板蓋宮に新宮を建てて多くはそこに住まわれたようである。
しかし、次ぎの孝徳帝は、また小懇田に帰り、そこを根拠地として、難波の宮を作られたらしい。
 そして、孝徳帝の次の斉明帝として再び位についた(在位655〜661年)後も、もここに瓦葺の宮を建てようとしたが、建造に失敗してやむなく
飛鳥川原宮に移る。
 そして、天智帝も、称制(即位せず皇太子のまま政務につく)して近江に都を移すまで、
古い都のあったここに居られたのではないかと思われる。
 このように小墾田は、推古天皇の宮殿であったが、その後も奈良時代後半までは正宮・離宮として約200年間にわたって存続してきた。
 (淳仁天皇在位758〜764年も5ヶ月にわたり滞在していた)
 飛鳥にある宮は一代限りのものであるが、小懇田宮は、律令制の基礎をつくった聖徳太子の作った宮にふさわしい大きな宮であり、
藤原宮平城宮、平安宮などの先駆をなしていると考えられる。

豊浦宮⇒⇒⇒
天皇の宮⇒⇒⇒
 朝堂の構造については、まず南門(宮門)を入ると朝庭があり、その左右に大臣(おおみ)・大夫(まえつきみ)、或いは皇子たちが座る庁(まつりごとどの=朝堂)が並んでいた。これが朝堂院で、その北側中央に大門(閤門=こうもん)が開かれ、この奧に天皇の大殿(おおどの)があるという構造になっていた。

「小治田宮」墨書土器
小治田宮(おはりだ)の井戸
明日香村埋蔵文化財展示室資料よるパネル及び実物
 写真(中)は、井戸枠を保存処理した後、常設展示されているもの。
年代を年輪年代測定法によると、井戸枠材の伐採年は758年頃であると判明された。
 「続日本紀」によると、天平宝字4年(760)8月から同5年1月にかけて、
淳仁天皇が小治田に行幸したという記録があって、小治田の井戸は淳仁天皇の行幸に
合わせて造られたと推定されている。
 小治田宮の井戸は、雷丘の東南、雷東方遺跡の一角で出土した。雷丘東方遺跡は、
雷丘の東を中心とするその一帯に広がる遺跡である。
 これまでの調査で、飛鳥時代の池や奈良時代の倉庫群や礎石建物を確認している。
この遺跡からは、平城宮難波宮と同じ瓦が出土することから、
役所あるいは宮殿の可能性が指摘されている。 
 雷丘東方遺跡で出土した墨書土器。
「小治」、「小治田」は飛鳥地域にあった古代地名。今はない。
この墨書土器は、雷丘付近が藤原京の時代の「左京小治町」であった可能性を示している。