中宮寺地図
法隆寺東院の伝法堂の裏に表門がある。 法興山(ほうこうざん)と号し、聖徳太子を開基とする聖徳宗の寺。 聖徳太子の生母、穴穂部間人大后(あなほべはしひとのぎさき)の宮跡を寺に改めたのが 草創と伝えられるが、創建の時期は諸説ある。 古くは「斑鳩尼寺」ともよばれ大和三門跡尼寺の一つともいわれる。(他に 法華寺 円照寺) |
|||||||
創建時は現在の地より500m東方にあり、その地が鵤宮(いかるがのみや) 、岡本宮、葦垣宮の中心にあたるために中宮寺のながついたとされる。 発掘調査によれば、金堂の前に塔が建つ南面四天王寺式伽藍だったらしい。 |
|||||||
現在の御堂は、昭和43年、高松宮妃殿下の発願によって建立された。 国宝の本尊・菩薩半跏思惟像(寺伝では如意輪観音 その他救世観音とか弥勒菩薩などの呼称もある) はここに安置されている。木像飛鳥仏。元は色彩像であったが千数千年を経て色彩が失われて下地の黒漆が現れている。 額や頬や胸などが外光を受けて白く光る。金属の照りと違ってやさしいく、目障りでないとされる。 この半跏像は聖徳太子の母穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)の姿と伝えられる。太子信仰の聖母像。 半跏は片足を水平に、他方を踏み下ろして椅子に腰掛ける姿。広隆寺にある2体の弥勒菩薩など古い弥勒に多いが、 如意輪観音や地蔵菩薩などにも見られる。 その他、聖徳太子の冥福を祈るために作成された国宝「天寿国曼荼羅繡帳(飛鳥)」がある。
|
|||||||
聖徳太子の死去(622)にあたり、妃の橘大郎女(おおいらつめ)の発願で作られたのが天寿国曼荼羅繡帳。 この下絵を描いたのは、東漢末賢(やまとのあやのまつけん)、高麗加西縊(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり) とされるが、渡来人であった。 |
聖徳太子が、母·穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのこうごう)のた めにその宮所を寺としたと伝わる。 最古の尼寺といわれ、宮家の皇女が入寺される慣習から門跡寺院となっ た中宮寺。飛鳥時代の作である本尊の菩薩半跏像は、モナリザ、スフィン クスと並ぶ世界三大微笑像と呼ばれる。 |
法興山 | 御堂 | |
本尊 如意輪観世音菩薩半跏思惟像(国宝) 文殊菩薩立像(重文) |
菩薩半跏思惟像 国宝 | 天寿国曼荼羅繍帳 国宝 (てんじゅこくまんだらしゅうちょう) |
東洋美術における「考える像」として有名な思惟半跏のこの像は、飛鳥彫刻 の最高傑作であると同時に、わが国美術史上欠かすことのできない作品である。 国際美術史学者間では、この像のお顔の優しさを数少ない「古典的微笑」の 典型として高く評価し、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作の モナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれている。 半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を左膝の上に置き、右手を曲げて、 その指先をほのかに頬に触れる優美な造形は、人間の救いをいかにせんかと 思惟される。 半跏:半跏趺坐(はんかふざ)の略で、結跏趺坐(けつかふざ)の略式のすわり方。 片方の足だけを他方の大腿(だいたい)部の上に置くすわり方。 結跏趺坐:跏(足の裏)と趺(足の甲)を結ぶ坐法。仏教における坐法の一つ。 あぐらをかき,左右のももの上に,反対の足を置き, 足の裏をあおむけにして組むもの。 右足が下になる降魔坐と左足が下になる吉祥坐の二種がある。 禅宗で用いるのは降魔坐。 半迦思惟像比較 |
|
あの肌の黒いつやは実に不思議である。この像が木でありながら銅と 同じような強い感じを持っているのはあのつやのせいだと思われる。(中略) わたくしたちはただうっとりとしてながめた。心の奥でしめやかに静 かにとめどもなく涙が流れるというような気持ちであった。ここには慈 愛悲哀との杯がなみなみと充たされている。まことに至純な美しさで, また美しいとのみでは言いつくせない神聖な美しさである。 哲郎 古寺巡礼(岩波文庫) |
|
黒光りする細くしなやかな体に、穏やかな微笑みをたたえる。もとは色彩像で あった。千数百年の時を経て下地の黒漆が表面に現れた。 如倫観音は、太子が母の死後にその顔を写して造らせたといわれる。 |