植山古墳・ 春日神社 地図
植山古墳 | |||||||
墳形は長方形墳。 東西40m、南北32mで一つの墳丘に約13mの横穴式石室が二つある。 東石室には阿蘇の石(熊本県宇土半島・阿蘇容結凝灰岩・阿蘇ピンク石)で造られた ピンク色の豪壮な石棺(家形石棺)がある。 西石室には羨道と玄室の間に兵庫県高砂市産 (兵庫県高砂市所在の伊保山周辺)の竜山石を使った扉がつくという特異なもの。 日本最初の女帝、推古天皇(554〜628)と息子の竹田皇子(生没年不明)が 合葬されたとされる。 東西の石室は6世紀末、西側は7世紀前半に築かれたとみられ東側に竹田皇子、 西側に推古天皇が葬られたと考えられる。 最近は五穀が実らず民は大変飢えている。そのため私のために陵を造営して手厚く葬ることを してはならない。先に亡くなった息子の竹田皇子の墓に埋葬してほしい。という遺言により推古天皇は 竹田の皇子の墓に合葬された。 日本書紀や古事記によると、推古天皇は、 先立たれた竹田皇子の墓に一緒に埋葬するよう遺言していたという。 一度合葬されたが、その後科長(しなが)へ移ったとされる。 |
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平成12年(2000)に発掘調査が行われた植山古墳も、東西に長い長方墳で、一つ の墳丘に二つの埋葬主体を有する双室墳である。しかし、一般的に知られる双室墳は、 規模や形式が全く同じ石室が並列に築かれているが、植山古墳の場合は全く異質な二つ の石室が並んで発見された。また、両石室の主軸は並行せず、西石室は、墳丘の主軸 線とずれるということも、極めて異質な印象と云われている。東石室は両袖式の横穴式 石室で、玄室には阿蘇溶結凝灰岩で作られた刳り抜き式の家形石棺が納められている。 一般的にこの時期の家形石棺は、兵庫県の竜山石かあるいは二上山産の凝灰岩を使用 することが多く、この点も植山古墳の特徴を際立たせる。石室からの遺物は極めて少ない。 西石室(推古天皇)は両袖式横穴式石室の玄門部分に、竜山石で作られた扉が付される という、類例のない構造を有した石室である。 石棺は残っていなかったが、阿蘇溶結凝灰岩の破片が出土しており、東石室と同石材 を使用した家形石棺が納められていたと考えられる。東石室が6世紀末、西石室が7世紀 前半に構築されたと見られる。 |
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周辺には欽明天皇説或いは蘇我稲目説のある見瀬丸山古墳や菖蒲池古墳などの蘇我氏 と関係の深い古墳が集中する地域である。 また、時期差の認められる異質な2石室による双室墳であり、両者が近親者であると見られている。 さらに北側の掘割の外側には藤原京期の柵列が発見されており、下った時期にも墓として意識され、 東石室が7世紀に至って排水溝の改修をうけるなど、墓の管理が継続的に実施されていたことは、被 葬者が高位の人物であったと想定され、諸条件を満たす人物は、推古天皇と竹田皇子とみられる。 |
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神殿 | 拝殿 |
春日神社参道 |
菖蒲池古墳 地図
全長約30mの2段構造の方墳。 南に開口する横穴式石室の中に刳抜式の家形石棺が南北に2基残存する。 石棺は天井部分が棟飾り風に仕上げられ、きわめて精美なものでほかに例がない。 東西規模は30.6mと確定された。 古墳を巡っていたとみられる堀は逆台形で、底面(幅4.3m以上)は砂利敷きである。 築造年代は、土器の形から、7世紀半ばごろの可能性が高い。 蘇我倉山田石川麻呂の墓だとの説がある。 |
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王族か有力豪族の墓とみられている。古墳の墳丘の外に、土を何層にも突き固める 「版築工法」で土を盛り、一部に上面をきれいにそろえた石敷きを設けた遺構が見つかった。 古墳の周囲を高度な土木技術で築いた堤が囲んでいた可能性があるとみている。 墳丘の東側と北側に幅約4〜20cmの堀が巡らされ、堀を挟んで東に高さ3.3m以上の 土を盛った遺構があった。盛り土の外側では幅2m以上、長さ4.5m以上にわたって石敷き が出土。長さ約40cmの板石で縁を囲った内側に、直径約20cmの川原石が上面をそろえて 敷き詰められていた。 飛鳥時代、版築や石敷きの工法は宮殿や寺院の造営などに限って使われていた高度な土 木技術とされる。 古墳のある一帯は有力豪族蘇我氏の根拠地で、大化改新につながる蘇我入鹿暗殺に 加担した、いとこの蘇我倉山田石川麻呂の墓との説もある。古墳は一辺約30mの2段構造 の方墳。 2013−2−21 朝日新聞 |
候補古墳 | ||
稲目 | 都塚古墳/丸山古墳 | |
馬子 | 石舞台古墳 | |
蝦夷・入鹿 | 五条野宮ケ原1号/五条野宮ケ原2号墳/菖蒲池古墳 |
日本書紀皇極元年(642)に国中の民と部民を徴発して双墓を今来(大和国高市郡)に造った。
一つを大陵といい、蝦夷大臣の墓とした。もう一つを小陵といい、入鹿の墓とした。 と書かれている。
すなわち蝦夷・入鹿親子は生前に自分たちの墓を並べて造り、それぞれ大陵・小陵と呼んだという記事である。
この今来の双墓に該当する7世紀中ごろの古墳がどれであるのか、古くから諸説があり、結論が出ていない。
最近いくつかの候補を挙げることができるようになった。
注目されているものの一つが、五条野宮1号墳・2号墳である。これらの古墳は宅地造成にともなう発掘調査で
発見されたもので、2基の石室が東西にならんで構築されている。
古墳(奈良)⇒⇒⇒
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