山田寺跡地図
重要文化財 山田寺跡出土品 山田寺東回廊は7世紀前半に建てられた。世界最古の木造建築 である法隆寺西院伽藍より古く、第一級の学術資料である。また、 土製品や金属製品、瓦や礎石(柱の下に据えて建物を支える石)、 木簡などの多様な出土品は7世紀の仏教文化や古代寺院の様相 を伝える一括資料として価値が高い。 |
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1976年以降の発掘調査では、 東西118m、南北185mの寺域に南門・中門・塔・金堂・講堂が 南北に一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲み、整然とした伽藍配置 であることが明らかになった。山田寺式伽藍配置と呼ばれている。 伽藍配置比較⇒⇒⇒ |
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元は蘇我石川麻呂の発願で建立された寺である。石川麻呂は、 中大兄皇子らが蘇我入鹿の暗殺を謀った乙巳の変にて、合図となる 上表文を読んだ人物。 右大臣までなったが、その後謀反の疑いをかけられ、建設途中の 山田寺で自害する。続き⇒⇒⇒ 講堂の本尊像仏頭(国宝)が興福寺に残る。
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山田寺東回廊 | 山田寺跡 | 仏頭について |
乙巳の変 | 定慧 | 蘇我倉山田石川麻呂 |
持統天皇 | 天武の宮廷に活きた天智の皇子 | 蘇我氏の没落 |
大化の明暗 | 倉山田石川麻呂 | 年表 644 |
蘇我氏 | 菖蒲池古墳 | 菖蒲池古墳 |
蘇我氏4代 | 大津皇子刑死 | 高松塚古墳 |
夕ざらばかはず鳴くなる | 倉山田石川麻呂 | 古人大兄皇子 |
山田寺(華厳寺)興福寺の末寺 |
回廊復原 | 東面回廊 |
東面回廊の復原図 |
飛鳥資料館説明書より |
普通の神社は集落の上手にある。しかし、山田は神社も山田寺も集落より低い所にある。 無実の罪で死んだ石川麻呂に人々の敬慕心が高まらないよう、村民をあえて上手に移住させたのではないか。 朝日新聞 大和の鎮魂歌 蘇我倉山田石川麻呂 より |
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「山田寺の跡には、建物の基壇や礎石が地上に残っており、発掘調査をする前から塔の北に金堂があったと考えられていました。 発掘の結果、金堂の基壇は、東西21.6m、南北18.4m、高さ2mの規模で周囲には板石を敷き詰めた犬走がめぐっていたことがわかりました。」 |
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「山田寺は、右大臣・蘇我山田石川麻呂が発願した飛鳥時代を代表する寺院の一つです。 記録によれば、舒明13年(641)に着工し2年後には、金堂が完成したものの、649年に石川麻呂が政争で、一族と共に自害したため、造営は中断しました。 その後、天武2年(673)持統天皇の強力な後ろ盾により、本格的に造営が再開され、676年に塔が完成685年には、現在興福寺に仏頭が残る本尊丈六仏の開眼供養が行われました。」 |
「山田寺では、塔と金堂のある中心区画の四方を回廊が囲んでいました。東面回廊の発掘調査では、 建物全体が屋根瓦もろとも西向き倒れた状態で見つかりました。 蓮弁(れんべん)を彫刻した礎石や基壇の縁石(ふちいし)がほぼ完全に残っており、 東面回廊は南北二十三間86.9m基壇幅6.4mの規模であったことがわかりました。 また、柱や連子窓(れんじ)など多くの建物部材や表面に白土を塗った壁土が残っており、古代の建物技術を知る貴重な資材となりました。 北から十三・十四・十五間目の部材など特によく残っていたことから、保存処理をほどこしたうえ、元のかたちに組み上げ、 飛鳥資料館に展示しています。」 |
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創建当時の東回廊がそのまま倒壊した状態で確認された。現存する最古の建造物である法隆寺西院伽藍よりも古い。 寺院の大きな屋根を支えるために、柱の上に組物を置く。 組物は肘木(ひじき)と斗(ます)を組み合わせる。これによって屋根の重さを分散する。 ここ山田寺南門の南から長い肘木が出土した。山田寺の長い肘木が使われていた建物は中門の可能性が高いと言われている。 中門の創建年代は7世紀の中頃。その構造は、中国隋代から法隆寺金堂への系統のものか、或いは奈良時代の薬師寺東塔に近いものか、 今後の調査が期待される。 |
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山田寺の伽藍配置は、塔、金堂、講堂の各基壇から永く四天王寺式と比定されていたが、金堂と講堂の間に回廊が回ることが明らかになり、 飛鳥寺と四天王寺とを織り混ぜた山田寺式という新たな配置であることがわかった。 |
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山田寺は、蘇我氏の一族で大化の改新功績者蘇我倉山田石川麻呂によって、641年に造営がはじまり、649年石川麻呂の変によって造営は 一時中断するが、7世紀の終わりに完成した飛鳥白鳳期の名刹である。 場所は現在の桜井市山田で、東から西にくだる丘陵の端部にある。11世紀前半に東方の丘陵から土砂崩れに襲われた、 金堂や塔は被害を免れたが、回廊はなぎ倒され、埋もれてしまい、千年近い間を経て発見された。 蘇我倉山田石川麻呂は馬子の孫で、大化の改新のきっかけになった乙巳の変(645)で、いとこの蘇我入鹿の暗殺に加担した。石川麻呂は 大化の新政右大臣に就いたが、大化5年(649)に異母弟日向(ひむか)の誣告(ぶこく・ふこく・故意に事実をいつわって告げる)で難波宮の政権 から追われ、逃亡先の山田寺の金堂前で自ら命を絶った。直後に冤罪(えんざい)と判明した。36年後の天武14年(685)朝廷は山田寺講堂に 造立した薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)を開眼、一族を追悼した。この薬師三尊は経緯を経て中尊の仏頭(銅造)は興福寺東金堂に 納めてある。 今は小さな観音堂と礎石が残るのみ。 仏頭について⇒⇒⇒ |
礼拝石 金堂跡正面中央から礼拝石が発掘された。現在同所にレプリカが設置されている。 |
井上靖書による磐余道の碑 |
右大臣山田公雪冤碑 | 特別史跡 山田寺跡 |
場所は(地図)山田寺跡に通じる古道磐余道に設置されている。 寺名が分かっているところは寺名(山田寺跡)が付けられ、分かって いないところは地名が付けられる。 |
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雪冤碑が山田寺向かって右に、覆いのある石川麻呂の雪冤碑が 設置されている。 江戸時代に越前に住む子孫が集まって無念を晴らすべく設置されたと いわれている。 当時の名筆家の貫名海屋(ぬきなかいおく)に依頼して建てた。 雪冤(せつえん):無実の罪をすすぎ、潔白であることを明らかにすること。 |
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大化五年(六四九)、皇太子殺害の意図をもつと讒言(ざんげん)され、 |