都塚古墳(みやこづか)地図
都塚古墳は、正月元旦に金鳥が鳴く伝承があり、全鳥塚とも呼ばれている。横穴式石室に家形石棺を納めた、 周辺には、石舞台古墳や塚本古墳などの大型方墳があるが、都塚古墳はこの中で最も古く位置づけられ、しかも、 |
写真左上赤〇が二上山 |
石を階段状に積み上げた、特異な構造の大型方墳。 ピラミッドのような構造で、拳大〜人頭大の川原石を積み上げた階段状となっており、東西約41m、南北約42mの方墳。 3段目以上は高さ30〜60cm、幅約1mの平坦部を計5段以上、階段状に石と土を盛り重ねた構造(高さ4.5m以上)。 同様の構造は、中国東北部から朝鮮半島北部を支配した高句麗の古墳と類似性がある。 |
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蘇我稲目(?〜570)ら、蘇我一族の有力者の墓との見方が出ている。 多くの渡来人を配下に置き、天皇の外戚となって台頭した権力者。 稲目は娘を天皇に嫁がせるなどして馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我氏全盛期の礎を築き、孫同士から聖徳太子が生まれた。 日本書紀には蘇我氏の邸宅に関する記事がたびたびあらわれる。蘇我氏の家は一か所ではなく、畝傍山から飛鳥付近 にかけていくつも存在したらしい。 稲目は百済からきた仏像を小墾田の家に安置し、向原の家を浄めて寺とした。(欽明13年・552)。また、高句麗の女性 二人を妻とし軽の曲殿に住まわせた(欽明23年・562)。馬子は石川の家に仏殿を造り(敏達13年・584)、蝦夷は 豊浦大臣の呼び名があり豊浦に邸宅を置いたらしく、その後、蝦夷・入鹿親子は甘樫岡と畝傍山の東に邸宅を構えた。 (皇極3年・644)。 |
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稲目の墓について日本書紀は一切触れていないため所在地を判断する根拠はないが、蘇我氏の勢力範囲の中では、 五条野丸山古墳や都塚古墳が候補として挙がっている。 都塚古墳は石舞台古墳から南東に400m離れた場所にあり、横穴式石室には刳り抜き式家形石棺が納められている。 墳丘は階段状の石積みによる、一辺41〜42mの方墳であることが明らかになっている。石舞台古墳のすぐ近くにある ことなどが稲目の墓とみる根拠の一部になっている。しかし、都塚古墳は石棺の年代は6世紀後半であるものの、石室の 年代観7世紀初頭頃とみられ、解決すべき課題が残されている。
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7世紀の飛鳥京の中心部から南東に約1km離れた尾根の先端部にある。 横穴式石室(全長約12m)に凝灰石をくりぬいた家形石棺が納められているが、盗掘されたとみられる。 副葬品には土師器や須恵器、鉄鏃(てつぞく)などの鉄製品があった。 |
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飛鳥地域など奈良盆地南部では、684年の白鳳南海地震以降、8回以上の南海トラフ地震を経験してきた。このうち、 4回は震度6以上の非常に大きな地震に襲われた。 都塚古墳では、地割れや亀裂など地震の被害を受けたとみられる痕跡が見つかっている。 基盤層の上に土を盛った裾部で、長さ4m以上、幅20〜60cm、深さ60cm以上の地割れ痕跡が北から北西の方向 に伸びている。 横穴石室でも、側面を構成する巨石の数カ所に、複数の亀裂がある。 |
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ピラミッドのように石を階段状に積み上げた、大型方墳。墳丘に12万9千個の石が使われ、築造に延べ3万人が関わった。 蘇我一族の墓の可能性が高まる。 東西約41m、南北約42m横穴式石室を備え、蓋が屋根型の家形石棺が納められている。墳丘は川原石を階段状に5段階 以上に積み上げ、階段の壁面部と平坦部の内部などに拳大から人頭大の石が使われていた。 採石地とされる二上山や付近の川辺などから関わった労働者数は延べ3万人となる。 一帯は蘇我氏の本拠地の一つとされる、当時の飛鳥でこれだけの労力をかけられるのは蘇我氏しかいないとされる。 |
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2016-5-27 朝日新聞より |
明日香村教育委員会 文化財課 現地説明資料より抜粋 |
元旦には金鳥が鳴く金鳥伝説があり、別名金鳥塚とも呼ばれています。 古墳の周辺は6世紀から7世紀にかけて、蘇我馬子ら蘇我一族の本拠地でした。また、司馬達等が坂田原に草堂を建て、その子鞍作多須奈が用明天皇の病気平癒を祈願して建てたとされる坂田寺や蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳、さらに蘇我馬子の邸宅とされる島庄遺跡、大海人皇子や持統天皇が吉野へ訪れる際に通った古道など、飛鳥時代の幕開けに重要な役割を担った遺跡が広がる地域でもありました。 墳丘は南から伸びる尾根上に位置しています。墳丘は礫などで構成された基盤層を整形した方墳で、最下段の法面には川原石を施しています。さらに上部の墳丘部分は段状にした石積みが行われています。この段上の石積みは四段分確認していますが、さらに数段増えるものと推定されます。 規模については東西41m、南北約42m、高さ4.5m以上、西側の見かけの高さは7m以上に復元することができます。墳丘北側の裾部には1〜1.5m、深さ約0.4mの周濠があり、北側の法面には人頭大の石材で護岸を行っています。 埋蔵施設は石英閃緑岩(通称、飛鳥石)を使用した南西に開口する両袖式の横穴式石室です。規模は全長12.2mで、玄室長は5.3m、幅2.8m、高さ3.55mです。羨道長は6.9m、幅1.9m〜2.0m、高さは約2mを測ります。玄室の中央には二上山の凝灰岩を使用しくりぬき式の家形石棺が安置されています。石棺の規模は棺身の長さ2.23m、幅1.46m、高さ1.08mで、内法は長さ1.74m、幅0.82m、深さ0.65mを測り、石棺の総高は1.72mあります。玄室内は暗渠排水溝が設けられています。 |
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