難波池神社豊浦寺跡とゆらでらあと・向原寺)・推古天皇豊浦宮跡地図

   
  近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡がみつかり、
これを裏付けている。豊浦宮は確定している宮として一番古い。
 推古天皇以前の宮について、裏付けとなる発掘調査はないが、例外として
雄略天皇の泊瀬朝倉宮が営まれた脇本遺跡が注目されている。
(脇本遺跡はまだ確定していない)
 欽明天皇十三年(552)百済の聖明王が朝廷に献上した
金銅の釈迦佛(日本初渡来の仏像)を蘇我稲目がたまわり、
向原の家を浄めて寺としたのが始まりで日本初の寺とされている。 
 豊浦寺で使用されている瓦は、宇治にある隼上がり窯跡史跡
製作されたものが使用されていた。   
   
 難波池神社 流造 
祭神 豊玉比売命
明治41年甘樫坐神社に合祀 
  6世紀後半、朝廷の二大豪族である蘇我氏と物部氏が、仏教崇拝の可否をめぐって、
対立した。やがて疫病が流行した時、災害は仏教崇拝による(仏を祭った)という理由で、
日本の神々が怒って病気を広めたと申し立てた。物部守屋により仏像は難波の堀江に捨てられ、
寺は焼却されたという。
 また、天皇に許可された守屋は、わざわざ海柘榴市の地を選んで、尼たちの刑罰を執行した。
馬子の保護を受けていた尼は、守屋に渡され、多くの見物人の前で尻や肩を鞭打たれた。
天皇の宮 汚職と新知識で栄えた蘇我氏  甘樫神社 和田萃 
崇仏・排仏 チマタ 豊浦寺
山田寺 仏教伝来 仏教受容めぐる論争
飛鳥・藤原の寺 東アジアとの交流 僧寺と尼寺
仏教受容をめぐる論争 操り人形 聖徳太子 飛鳥の地名 
飛鳥時代とは 大聖勝軍寺  丁未の変 
物部氏 古代豪族   東漢の凋落   とゆら「豊浦」 
 難波池に由来
  向原寺(豊浦寺)の一角に「難波池」と称される小さな池がある。
この池は「日本書紀」欽明天皇十三年(552)仏教伝来に記事に廃仏派の物部尾興(おこし)が
仏像を投げこんだ難波の堀江であるとの伝承をもつ。そして後世の記録には、この仏像が
信濃(長野県)善光寺に祀られたという善光寺縁起として語りつがれている。
 これまで宮殿が集中していた磐余から飛鳥に都を遷し、飛鳥の最初の宮殿として推古天皇が即位したのが592年豊浦の宮である。
爾来飛鳥は100余年間都であり続けた。
 豊浦の宮は、飛鳥川左岸の明日香村豊浦にあった。今も地名は残っている。603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に遷った後に、豊浦宮の跡地は、蘇我馬子に譲られて豊浦寺となる。今の豊浦には豊浦寺を引き継いだと伝える向原寺があり、周囲では7世紀に造営された豊浦寺の堂塔跡が発見されている。
 跡地を馬子に与えたのは、推古からみるとおじにあたり、推古は蘇我系の天皇で血筋が大きく関わっている。
 蘇我氏のもともとの拠点は、畝傍山西方の蘇我川流域であった。蘇我氏は飛鳥の開拓を進めていた東漢氏など先進的な
渡来人を傘下におき、拠点を広げ、精力を巨大化させる。 
 奈良盆地の南部には多くの宮殿が営まれたが、なかでも、推古天皇が豊浦宮で即位してから持統天皇が藤原京へ遷都するまでの約100年間は、飛鳥とその周辺に宮殿が集中します。飛鳥時代という言葉が示すように、この地域が政治の中心となった。
 その中枢としての役割を果たしたの宮殿であった。「宮(みや)」は家をあらわす「や(家)」に、尊称「み(御)」がついたものでもともとは貴人の住まいを意味する。そして、やがてへ天皇や皇族の宮殿を指すようになった。
 「都」は「宮」に、場所を示す「こ(処)」がついた言葉で、「宮のあるところ」というのが本来の意味。 
伎楽伝来の地
 
 すすぎの滝
 崇峻天皇五年(592)十一月、崇峻天皇は、蘇我大臣馬子の命を受けた倭漢直
(やまとのあやのあたいこま)によって暗殺され、同年十二月、額田部皇女(ぬかだべのひめみこ)豊浦宮にて即位する。
(1か月後に遷っていることから、既存の施設を改修して利用されたと考えられている)
わが国最初の女帝推古天皇である。(飛鳥時代の始まり) 続き⇒⇒⇒
 以来100年間、歴代天皇は宮を飛鳥の地に集中的に営み、飛鳥は政治の中心となり、大陸の先進文化を摂取し
斬新・華麗な飛鳥文化が花開いた。
 10年後の603年、北に接し小墾田宮をつくり、宮殿を小墾田に遷した。遷宮の理由は西暦600年に派遣された第1回遣隋使
であったと考えられている。隋の文帝に当時の東アジア的な政治システムへと改めるように言われた。帰国後、冠位十二階の
制定、憲法十七条、史書編纂の開始、大道(おおち)などが整備され、小墾田宮の造営もこのころで、小墾田宮はそれまでの
王宮にない、東アジア的な宮殿であったことが推測されている。
伎楽飛鳥時代の芸能⇒⇒⇒
土舞台⇒⇒⇒
豊浦は蘇我氏に賜って豊浦寺になったと伝えられる。(豊浦宮の跡地に寺院を建立した)
 明日香村豊浦の向原寺一帯には往時の礎石が残っており、また、1957年以来数度におよぶ発掘調査により、
豊浦寺の遺構が確かめられ、遺構の保存がなされてきた。
  
現在の向原寺が豊浦寺の後身地図
 天武天皇の崩御に際し、朱鳥元年(あかみどり・686)十二月に
大官寺飛鳥寺川原寺、豊浦寺、坂田寺で法要をおこなっていて、五大寺に列せられていた。
 豊浦寺は飛鳥寺と一対になる尼寺で、その伽藍ははっきりわかっていないが、
現本堂の東隣に創建時の基壇建物が確認されており、講堂と考えられている。
 百済から献上された仏像を蘇我稲目が安置した向原の家は推古元年(592)には飛鳥で最初
の宮となる豊浦宮になり、後には最初の尼寺・豊浦寺となる。向原寺はその後の後身である。
 境内では豊浦宮から豊浦寺となった遺構が保存されている。下の写真。
 蘇我稲目は「向原の家」を寺にしたと日本書紀に記されている。向原の場所は、現在向原寺(豊浦寺)
がある明日香豊浦と考えられる。
 向原寺境内から西側にかけての調査では、回廊とみられる石垣・石敷き遺構の下層で掘立柱や石組
み溝などが見つかっている。出土する土器や層位的な関係から6世紀後半頃のものとみられ、
向原の家と同時期であることから邸宅の一部である可能性が高い。
 蘇我蝦夷の邸宅も豊浦大臣と呼ばれていたことから、この付近にあったものと考えられる。
観音菩薩立像
遺構の上には屋根が
付けてある
 飛鳥時代最初の推古天皇豊浦宮の遺構。
飛鳥寺に続く2番目の本格寺院である豊浦
(飛鳥寺の姉妹寺)の伽藍がわかった。
推古天皇豊浦の発掘調査当時にでた遺構を
現状保存で公開している。
塀越しに甘樫坐神社が見える。
橿原考古学研究所付属博物館⇒