横大路(よこおおじ)地図
奈良盆地の中央を東西に横断する直線の官道。名称の初見は建久四年(1193)の文書であるが、道そのものの造営は「日本書紀」推古天皇二十一年(613)十一月の条「難波(なにわ)より京に至るまでに大道を置く」とある大道をこの横大路にあてるのが通説である。 京は、推古天皇の宮居のあった小墾田宮ととれる。桜井市付近にあった磐余の諸宮の位置など考えると、横大路は推古朝以前から通じていたと推定する説もある。もしそうならば、推古紀の記事は、すでにあった道路を修復したか、道幅を広げ、官道として整備したと解釈もできる。 奈良県内のルートは當麻町の長尾神社付近から大和高田市、橿原市の中心部をとおり、桜井市仁王堂の小西橋に至る約13km。この道を西行すると當麻道となり、竹之内峠を越えて太子町から天王寺に至る。 一方東進すると名張から伊賀、鈴鹿方面に至る道と伊勢神宮に至る伊勢道に分かれる。 |
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レンガの下1.2mのところに藤原京の 横大路北側溝跡(幅2m)。 横大路は30〜40m程の幅をもつ 幹線道路であったと考えられている。 |
地図 藤原京横大路北側溝跡 |
地図 |
下つ道と横大路が交差した場所で札の辻といわれる。 この一帯の水は、金気のある水であったが、この辻に良質の水が出る 井戸があった。 写真の井戸は絵図に描かれた六角井戸が半分に残った姿。 江戸時代札の辻(八木札の辻)⇒⇒⇒ さらに、一つ南(下つ道)の辻にもあった。⇒⇒⇒ |
下つ道に残る建物。 | |
横大路と下つ道の交差点から、下つ道を南に見たところ。 この交差点は日本最初の国道の交差点。 この延長に、おふさ観音寺、さらに下つ道の突き当たりである丸山古墳がある。 |
地図 | |
太神宮燈籠(だいじんぐうとうろう) |
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太神宮 : 天照大神をまつる神宮,すなわち皇大神宮、また、皇大神宮と豊 受大神宮とをまとめた, 伊勢神宮の称。 |
明和8年(1771)に建立されたと考えられ 太神宮灯籠としては、最もふるいものの ひとつとされている。 地図 |
横大路にある民家 | 横大路から耳成 | 太子駒つなぎの石 |
「太子は、単に通勤のためにのみ太子道を歩まれたのではなく、百姓たちの耕作や生活など民情視察のため、 慈悲の心から時には回り道(香久山の方を通られるのは、 確かに筋違道よりも遠回りとなる)をしてでも、日によっていろいろな道を通られたのではないでしょうか。 そういうことを考えさせられる芹摘姫説話である。 この膳夫(かしわで)から北西耳成山の南東の麓に一本水という村がこの地です。 太子が通勤の途次馬をとめてつながれたという。 太子駒つなぎの石である。 太子が御乗馬をつながれたと伝えられています。」 太子道⇒⇒⇒ |
祭神 菊理姫命 地蔵寺にあった白山神社も合祀されている。 地図 |
祭神 大物主櫛甕玉命 (おおものぬしくしみかたまのみこと) 当社は直ぐ南側を横大路が通り、 西側を壬申の乱でも知られる中つ道が通る 分岐点に位置し、また三輪郷の西南の隅 にもあたる。 |
三輪神社西南隅の礎石、祠の裏側にある。 ここは中つ道(地図)と横大路の交差した場所にあたる。 現在の定説では、藤原京域の北東角に位置する。 この礎石は(写真下)、直径140cm、円座直径110cm、厚み40cmの花崗岩製で、 藤原京内の寺院のものを持ち出したかもしれない。 |
三輪神社西南隅の 礎石 |
中つ道北方面 | 中つ道南方面 かすかに見える 山は香具山 |
横大路東方面 左には三輪神社 |
横大路西方面 |
この地点の中つ道は、民家が迫り道幅も狭くなっている。 |
三輪神社神殿 | 境内は掃き清められ ている |
大欅 | 2009-9-23 彼岸花 |
江戸時代の「おかげ参り」には伊勢街道として多くの人々の目印にもなった大欅が 「大和名所図絵」にも描かれている。今は御神木として地域の人に崇められている。 |
醍醐町環濠址 地図 |
伝藤原宮海犬養門跡(あめのいぬかいもん) 地図 |
寺川にかかる小西橋、このまま東進すると名張、 または、伊勢方面に行く。 |
仁王堂、小西橋を渡り西に向いたところ。 地図 |
寺川に三角の形で磐余橋(いわれ)と 小西橋(奥)がかかる。 |
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