観世音菩薩
不空羂索観音
馬頭観音
如意輪観音
准提観音
十一面観音
千手観音
虚空蔵菩薩
五秘密菩薩
月光菩薩
五大虚空蔵
五大菩薩
金剛波羅密多
金剛薩タ
金剛宝
金剛法
金剛業
聖観音菩薩
勢至菩薩
地蔵菩薩
七観音(六観音)
日光菩薩
普賢菩薩
文殊菩薩
弥勒菩薩
楊柳観音
正了知大将
観世音菩薩 |
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一般に観音と親しく呼んでいるが、正しくは観自在菩薩と呼び、光世音、観世音或いは観自在ともいう。 また、観音には衆生が救いを求めた時、仏ほかあらゆる形に変化して、その願いに応ずるとされている。この種々の国土に種々の身を現して、諸々の苦悩に悩む一切衆生を救済する観音を三十三応現身(三十三変化身)といっている。 三十三応現身は、仏身・比丘身・比丘尼身・毘沙門身・龍身・婦女身・夜叉身・童女身・人身・執金剛身・阿修羅身・帝釈身・大梵天王身・長者身等がある。 観音が、三十三の応現身(変化身)を現すことから、この変化に準ずるものとして中国の僧が、尊像の経軌とは別に三十三観音を作った。 楊柳観音・白衣観音・滝見観音・魚藍観音・水月観音・一葉観音・岩戸観音・馬郎婦観音・合掌観音等がある。
羅延堅固王・金毘羅王・五部浄・帝釈天・大弁項功徳天・神母天・毘沙門天王・婆藪仙人・阿修羅王・迦楼天王・雷神・風神他 |
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観音は、飛鳥時代の早くから信仰を集めた。十一面観音はじめ、千手観音、不空羂索観音もその後の奈良時代(8世紀)を通じてたくさん造像が行われている。こうした変化観音は密教のホトケである。奈良時代にも密教が行われていて、仏教美術の豊潤な世界を作りながら人々の信仰をひきつけていた。 | ||||
観自在 般若心経では観自在菩薩と言う。もともとは観自在菩薩の方が正しいと言われていた。観自在の方は、我々の世界を自由自在に、 どんなところで困っていても見て下さる。その自由さを表している。 観世音 観音経(観音様のことを説く)では観世音菩薩と言う。我々が助けて下さいと言って観音様にすがる声、これを常に観ている、どんな 苦労に陥っても見逃さないように、ずっと見詰めて下さる。観音様が観ているいるのは世の中である。ここに世というのを入れた。 観音 観音に関するお経が翻訳されたのが唐の時代であった。丁度空海が唐に渡られた時代の唐は強力な大きな国であった。 その時代の2代皇帝に、李世民という方がいた。この方が亡くなったときに、「引き避諱」といって、偉大な人がなくなった場合には、 その人の名前に使われている漢字を使わないというのがあった。そこで観世音という翻訳を作ることが引掛りお経があっても世の 字を使ってはならないということになり、唐の時代に世をとりはらった。 |
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不空羂索観音 |
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「不空(空しからず)は余すところなく人々にご利益を施す。羂索とは慈悲の索なり。魚網雁縄は魚鳥の網目に漏るることあるも、この観音の慈悲の臂索には一切衆生漏るることなし。羂網を大千界に覆いて修行者に奉化し、必ず悉地(しっち、秘法を修して真言の妙果を成就すること)を与えて利益を施す意なり。此の義空しからず故に不空という」(不空羂索法)とあるように、大悲の羂索をもって一切の衆生を救済し、諸願を空しからしめない意から不空羂索と名ずけられた。 一面八臂像で三目、冠中に立化仏あり眉間の白毫の上に縦に一目ある。二手は合掌し左手は蓮華、羂索を持ち与願印、右手は錫杖、白払を持ち与願印をなす。 羂索は投げ縄の意味で、すべての人々を逃すことなく救ってくれるという。手や顔の数は一定しないが、鹿皮を肩にかけているのが特徴とされる。 不空院⇒ |
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興福寺・南円堂の本尊不空羂索観音坐像は運慶の父、康慶(こうけい)が造立した。高さ336cm、目が三つ、腕が8本。平安後期の温和な定朝様式を打破して、鎌倉時代の実在感に富む新様式のさきがけとなった。 治承4年(1180)平氏の南都焼き討ちで焼け落ちた元々の像を、文治5年(1189)に復元した。 |
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東大寺 三月堂(法華堂)の不空羂索観音について 高さ3.62m(国宝)、宝冠(高さ88cm)目が三つ、腕が8本床張りの須弥壇中央八角形二段の仏壇(八角二重壇、高さ84cm)が置かれ、その上段に本尊として立つ。唐草模様を透かし彫りした銀製の本体正面に、高さ24cmの化仏(けぶつ)がついている。翡翠、琥珀など1万数千点の宝石で飾られた銀製宝冠をかぶり、巨大な光背からは光の筋が何本も放射されている。 ふくよかで丸みを帯びた顔に見えるといわれる。さらに体があまり太っていないうえ、背中まで丁寧につくられている点が、7~8世紀の作とされる 薬師寺の日光・月光菩薩像に似ているといわれる。観音の八角須弥壇の部材が729年伐採と判明した年輪年代調査の結果を踏まえると、740年以降 とされてきた製作年代がさかのぼる可能性が出てきたとされる。 |
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馬頭観音 |
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密教では無量寿仏の変化身とされ、馬頭明王とも呼ばれている。忿怒の形相の激しい表現で造られているので観音とするよりも、明王の性格が強い。大力持明王、馬頭金剛明王などともいわれている。 頭上に白馬頭を頂き畜生道の尊として信仰されている。 日本で多く見られる像は、三面六臂または三面八臂で、正面は狗牙をだした瞋面で、六臂と八臂には斧とか金剛杖、弓箭などの武器を持ち、二手は印契(合掌し、頭指を屈して甲を相合し、無名指を外に叉す)を結ぶ。 像はこの他三面二臂、三面四臂などがある。 頭上に馬の頭をのせ、観音菩薩には珍しい忿怒の表情は、諸悪を食らいつくし苦しみを断つ強い慈悲のあらわれ。 家畜を守る観音としても信仰されている。 |
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如意輪観音 |
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如意とは如意宝珠、輪は法輪を意味し、如意宝珠の三昧に住して法輪を転じ、六道の衆生の苦を抜き利益を与えることを本誓とする菩薩である。この観音の如意宝珠の功徳によって、財宝も意の如くなり、法輪によって、煩悩を破壊する力を持つと信仰されている。
像は六臂の坐像が多い。六臂は、 右第一手は、頬杖を突いて思惟の相を示し有情を懸念す・・・地獄道の救済 第二手は、如意珠を持ち能く一切の願を満たす・・・餓鬼道の救済 第三手は、立膝の上に垂れ珠数を持ち衆生の苦を救う・・・畜生道の救済 左第一手は、下に垂れ光明山を圧し無傾動を成就す・・・修羅道の救済 第二手は、蓮を持ち能く諸々の非法を浄む・・・人道の救済 第三手は、輪を持ち無上の法を輪転す・・・天道の救済 六道に巡遊して大悲の方便により、万苦を解脱させる。六臂は六道の苦しみから脱することを意味する。六臂像の他に二臂、四臂、十臂の異像もある。 |
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観心寺 如意輪観音菩薩像(国宝) 平安時代 写真 平安時代初期の作。榧の一木造である。この像は六臂像にして、その位置、又、持物、右膝を立てる坐り方な どは如意輪観音儀軌の規定通りに作られている。豊満な顔面に切れの鋭い眼唇などを作り、森厳でしかも慈悲に 富んだ相好を示し、体躯四肢は肉附豊かで充実した量感がある。衣紋は褶襞の隆起が高く、しかも翻波式の典型 的彫法を用い、鋭い刀痕は木彫像として最も優れた技巧を示している。永年秘仏として外気に触れなかったため か、全身の彩色が鮮かに残り、光背の火炎、台座の蓮弁上の繧繝彩色などにいたるまで、今描いたように美麗に 残っている。 元慶7年(883)の縁起資財帖(国宝)に「彩色如意輪菩薩一躯高さ3尺余木造」とあるのはこの本尊を指す。 彫刻史上、平安時代初期の最高傑作といわれ密教美術の極致である。秘仏の為、毎年4月17-18日の両日に御 開扉する。 |
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准提観音 |
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准提仏母とも七具提仏母(あらゆる仏の母)ともいわれ、無量の諸仏・菩薩の母とも呼ばれた。 准提は清浄の意で、この観音の心の清らかさを讃え名付けたという。主として三障(煩悩障即ち貧欲・瞋恚いんい・愚痴)を断じ傲慢を降して仏性を得せしめる。 馬頭観音が畜生道の能化に当たるのに対し、准提観音は人間界に交って一切衆生の悪業を破り、延命、除災、救児等の諸願が叶うとされて、徳川時代までは婦人の守り本尊としていた風習があった。 像は白衣を着て十八臂で面に三目がある。二手は説法相、右手には施無畏・剣・数珠・鉤・斧、左手は如意宝幢・蓮華・輪・索などを持つ。 夫婦円満、子授けのご利益があるとされている。西国三十三所では醍醐寺が本尊としている。 |
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十一面観音 |
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一面を頭上に十一面をつけている変化観音の一つで、我国では古くから信仰され、多くの遺例を持つ像である。 検察審査会は,地方裁判所のあるところに設置されていて裁判員と同じように選挙権を有する 一般人の中から抽選で選ばれた11名により構成され審査されます。そのことから,十一面観音 立像が広報用ポスターなどに使われています。土門拳の作品も使用されています。 もちろん十一面観音とは,その多くの面により世界の隅々まで救われるべき人を見落とさない という観音様ですので, 11人の審査員が文字どおり隅から隅まで眼を光らせ審査することが期 待され,ポスターのモデルとして採用されています。 |
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聖林寺 十一面観音 観音寺 十一面観音 室生寺 くわしく 聖林寺 観音寺 |
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千手観音 |
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観音像の中でも最たる変化像が千手観音。 手が千本、眼が千あるので千手千眼観自在菩薩という。菩薩の救済の手の及ぶ範囲が広大で、その方便が無量であることを意味している。 像は普通千手千眼でなく、中央の二手を除いて左右二十手ずつ合わせて四十手像である。それはその一手が二十五有界(うかい・衆生が輪廻する世界を二十五種に分けたもの。欲界に十四所、色界に七所、無色界に四所あるという)の衆生を救うために四十手に二十五を乗じて千手といい、一手に一眼を有しているので千眼である。これに中央の二手を合わせて四十二臂像が多く造られた。 この菩薩の造られた初期の頃は、実数の千手を持つ像も造られた。(唐招提寺金堂像、藤井寺像)経軌による像は1・11面42臂像、2・27面42臂像がある。 唐招提寺の千手観音の手は911本ついている。500年後の三十三間堂の千手観音は48本となっている。 |
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寿宝寺十一面千手千眼観音菩薩 | ||||
葛井寺(ふじい) 千手観音 左右の体側に大脇手(わきしゅ)38本、小脇手1001本が密集して広がる。胸元の合掌手2本を加えると計1041本。目視ではとても数えきれない。葛井寺の本尊十一面千手千限観世音菩薩坐像(じゅういちめんせんじゅせんげん)は、日本美l術史に君臨する「真数千手」の超一級千手観音像である。 等身より少し大きい奈良時代の脱活乾漆像。11の仏(ぶつ)菩薩面を頂き、半眼伏し目の顔は無辺の慈悲が宿る。合掌手は指先を少し接するだけで、ぴったり接した合掌に比べてずっと柔和に感じる。 扇状に伸びる脇手群は像を包見込もうとしているように見える。「まるで光背」とも評される。横から見ると、腕が幾重にも密植され、そのボリュームは圧巻である。 中でも小脇手の表情がすごい。腕はやや長め、ひじを少し曲げ、目を描いた手のひらはほとんどが上向きだ。そして手首や5本の指の屈伸が多様な救いの手を表現している。恐らく同形の手は皆無であろう。 大小の脇手は、本体の脱活乾漆とは異なる木心乾漆漆箔(しっぱく)造りだ。心材に桐を使うなどして軽量化を図りながら千態万状の腕を量感たっぷりにまとめ上げている。 背後からの写真を見ると、像の後ろに頑丈な支柱を2本立て、大手(左右各19本)、小手(左501本、右500本)を植え付けている。光背のように本体から離して組み立てているのだ。でも、正面から拝した姿は少しも不自然ではない。 よく比較対照されるのが、同じ古代の真数千手である奈良・唐招提寺の国宝千手観音立像だ。坐像と立像、脱活乾漆と木心乾漆の違いがあり、さらに細かい点でも所々に異なった意匠が見える。一例は小脇手。変化に富む葛井寺像に比べ、唐招提寺像の小脇手は腕も指もほぼ直線状態にそろえてある。 葛井寺は聖武天皇の勅願によると伝わるが、河内の渡来系氏族葛井氏の氏寺とする説が有力だ。本尊の千手観音は普段秘仏で、毎月18日に公開されており、やや遠目で視界も狭いが、観音菩薩の尊厳は少しも損なわれいない。 2013-6-22 朝日新聞 岸根一正 より |
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虚空蔵菩薩 |
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虚空蔵菩薩とは、無尽の宝庫で智慧や財宝を入れることが出来る蔵の意味で、智慧と福徳を具えて願を満たす菩薩である。像は種々あるが、右手に智慧の利剣を持ち、左手に如意宝珠を持つ。 |
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五秘密菩薩 |
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密教において、金剛界の金剛薩(中)・欲(東)・蝕(南)・愛(西)・慢(北)の五金剛菩薩をいう。
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月光菩薩 |
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日光・月光菩薩像はそれぞれを単独で祀る信仰はなく、薬師如来の脇侍としてだけ造像される。奈良・薬師寺像などの古い時代の像は持物はないが、平安時代以降には、日光菩薩像は日輪、月光菩薩像は月輪をつけた蓮華(れんげ)を持ったり、頭飾(とうしょく)にあらわしたりする例が出てくる。 | ||||
五大虚空蔵 |
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五大菩薩 |
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金剛波羅密多 |
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三十三観音 |
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観音菩薩が種々に変化し、三十三の化身を生ずるとの思想から、後世俗間に於いて三十三観音や三十三ヶ所巡礼の成立をみた。 | ||||
金剛薩タ |
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漢訳では執金剛・秘密主ともいう。
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金剛宝 |
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金剛法 |
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金剛業 |
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聖観音菩薩 |
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観音とは観世音(かんぜおん)、光世音(こうぜおん)、或いは観自在(かんじざい)という。 観自在とは一切衆生を観察し自在によくこれを救い、また一切諸法観察すること無碍自在(むげじざい)であるという。 聖観音の呼称を使っているのは十一面、千手、如意輪などのような変化観音があらわれて後、変化観音と区別するため変化しない本然の観音の頭に聖をつけたのである。 一面二臂。持ち物は宝珠や水瓶、蓮華など。 薬師寺東院堂の聖観音菩薩は、薬師寺金堂の本尊薬師如来と同じ銅造で、制作年代は様式上、薬師如来と同時期か、やや古いとされる。薬師如来と同じく天平説(8世紀初め)と白鳳説(7世紀末)の論争がある。 |
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勢至菩薩 |
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無量寿経に「智慧の光を以って普く一切を照らし、三途を離れて無上力を得しむ。 観音が慈悲門であるのに対して、勢至は智慧門を司り、智慧の光を以ってあらゆるものを照らして、 極楽浄土への来迎の補処の菩薩として、観音が蓮台を持ち、勢至が合掌して阿弥陀如来の左右に随う。 像は、冠中に宝瓶の標識がある。 |
清浄華院 江戸時代 |
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智慧の光で一切を照らし、衆生の迷いを除き、無上の力を得させるといわれる菩薩(悟りを求めて修行する人)です。観音菩薩ととも に阿弥陀如来の横にいる姿は仏像や仏画によく取り上げられてきました。 浄土宗では宗祖·法然(1133~1212)が勢至菩薩の化身であるという信仰に基づき勢至菩薩像をまつり、制作してきました。 勢至菩薩の名の由来となったサンスクリット語は「大きな勇気を得た」を意味します。勇気や信念、豊かな知性を持ち、新しい道 を切り開いた法然。法然⇒ |
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地蔵菩薩 |
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地蔵菩薩は釈迦入滅の後、弥勒仏が五十六億七千万年の後に出世するまでの中間期間、即ち無仏の時に、この五濁の世に出現し、六道の衆生を救済する菩薩であるといわれ、末法思想が盛んになるにつれて広く信仰されるに至った。 わが国では今昔物語の成立(平安時代末期)前後から殊の外に信仰され、近世になると民間信仰と結ばれて地蔵講、地蔵盆などのような年中行事の一つともなり、現在に至っている。 われわれにもっとも親しい姿で現される比丘形像は中国において特殊信仰をもたれはじめた際に新しく作られたものと考えられる。 像は天冠を頂き袈裟を着け、左手に蓮華、右手に宝珠を持っているもの、坊主頭で、左手に宝珠、右手に錫杖をとり青蓮華に安住するものなどである。 地蔵尊を六道に配して六地蔵として町の入口や街道筋に建てて信仰することが江戸時代に流行した。 |
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地蔵菩薩は、子供の守り神として知られ、あらゆる災厄を祓うとされる。地獄と浄土を往来できるといわれる。姿を変えながら六道を巡り説法をされる。 | ||||
空也上人の賽の河原地蔵和讃 帰命頂礼地蔵尊、此れは此の世のことならず、 死出の山路裾野なる、西の河原の物語、聞くにつけても哀れなり。 哀れなるかな幼児(おさなご)が、立ちまわるにも拝むにも、 唯父恋し母恋し、恋し恋しと泣く声は、此の世の声と事変わり、 悲しさ哀れさ骨も身も、砕けて通るばかりなり。 残せし着物を見ては泣き、手遊び見ては思い出し、 たっしゃな子供を見るにつけ。なぜに我が子は死んだかと。 嘆き悲しむ哀れさよ。 子は河原にてこの苦労、一重積んでは父の為、 二重積んでは母様と、さも幼(いとげ)なる手を合わし、 礼拝回向(えこう)ぞしおらしや、三重積んでは古里の、 兄弟我が身と回向する。 ━鬼登場━ やい、子供、汝ら何をする、娑婆と思いて甘えるか、 汝らの父母は、供養はするけれど、ただ明け暮れに嘆く許りなり、 親の嘆きは汝らが、苦患を受ける種となる。 汝ら罪なく思うかや、ははの乳房が出ない時、 お前は泣く泣く無理を云い、父が抱こうとした時に、 母の胸を離れずに、ただ抱かれているばかり。 峰の嵐を吹く時は、父が呼びしと起き上がり、 水の流れを聞く時は、母が呼ぶかと走せ下り、 辺りを見れど母もなし、父を呼べども父も来ず、 知らぬが死出の山路なり、此の苦しみを如何ににせん、 こけつ転びつ憧れて、逢いたや見たや恋しやと、 もだえ嘆くぞ哀れなり。 ━地蔵登場━ 汝ら命短くして、冥土の旅に来つれども 今後は我を、冥土の父母とせよ。-幼児を裳の内に入れて抱く。 |
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法隆寺大宝蔵院に安置されている地蔵尊は、唯一単独で国宝に指定されている。 この地蔵はもともと大御輪寺(若宮神社)にあったものであるが、神仏分離で廃寺となった時に法隆寺に渡ってきた。 平安前期(9世紀半ば)の作で、木像(一木造り)、立像(172cm)、美術的評価の頂点に立つ。 平安前期のものは、右手を広げて大腿部に垂らす。平安後期以後のものは、右手に錫杖(しゃくじょう)を立てて持ち、左手に宝珠を載せる。 |
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七観音(六観音) |
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聖・十一面・千手・不空羂索・馬頭・如意輪・准提を総称して七観音というが、天台系では、聖・十一面・千手・不空羂索・馬頭・如意輪をもって六観音とし、真言系では不空羂索の代わりに准提観音を加える。これは六道思想の発達に基因して成立したもの思われる。 | ||||
日光菩薩 |
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日光・月光菩薩像はそれぞれを単独で祀る信仰はなく、薬師如来の脇侍としてだけ造像される。奈良・薬師寺像などの古い時代の像は持物はないが、平安時代以降には、日光菩薩像は日輪、月光菩薩像は月輪をつけた蓮華(れんげ)を持ったり、頭飾(とうしょく)にあらわしたりする例が出てくる。 | ||||
普賢菩薩 |
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平安時代に法華経の信仰が盛んになり、法華経の護持者としての普賢菩薩像が多く造られた。 法華経は、また、女人往生を説くということから女人信仰が普賢菩薩に向けられた。 像容は白象に乗る姿で示され、釈迦如来の文殊菩薩とともに釈迦三尊の脇侍にして造られた像が多い。像はすべて二臂である。 なお、近世絵画に遊女などを普賢にみたてのがある。 |
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文殊菩薩 |
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智恵第一で、智恵は童子の如く清純で、執着の無い素性を示すとして童子形に造ることが多い。 右手に智剣、左手に蓮華上に梵経(経箱)を持つ。多くは獅子の背に坐る形をとる。 髪の束ね方の数によって、一髻、五髻などの別がある。 |
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興福寺東金堂(とうこんどう)の木像文殊菩薩坐像は、よく出会う文殊像とは少し印象が異なる。頭上に梵篋(ぼんぎょう)という箱状の経典を頂いている。豊かな知識と緻密な思考がぎっしり詰まっているのだろう。いかにも「知恵の文殊」らしい姿だ。 文殊菩薩は立った獅子の背に乗る像が多い。だが、この像の獅子は蓮華座(れんげざ)の下支えとしてしゃがんだまま台座の一部になりきっている。普通の文殊のような宝剣も持たない。こんな点も他寺に多い文殊騎獅像(きしぞう)とは異色である。 鎌倉時代の慶派仏師定慶かその周辺仏師の作らしい。東金堂では本尊薬師如来の左(南側)に安置され、対称の位置に国宝の木像維摩居士坐像(定慶作)が座す。維摩経の文殊維摩問答の場を想定した配置と考えられる。 両像を比べると、弁舌姿の老境維摩に対し、文殊は少年のような凛々しい丸顔。維摩のゆったりした衣に、文殊は胸まで覆う着衣。装飾背板付きの角形台座に座す維摩。光背も台座も円形の文殊。それらの対照も興味をそそる。 定慶は慶派の祖師康慶に続く運慶や快慶と同世代の仏師らしい。二人ほどの華やかさはないが、当時伝来した中国宋の技法を採用して興福寺などで活躍したようだ。代表作は維摩像。文殊像には定慶の配名はないが、定慶と同じ宋風技法が所々に見られる。 文殊菩薩は普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍(きょうじ)として、通常の釈迦三尊では中尊の左に位置する。釈迦の知恵を象徴するのが文殊、慈悲を象徴するのが普賢とされる。 独尊としての信仰も盛んで中国山西省の五台山が霊地として有名だ。日本では平安前期に貧民救済などを願う勅命の文殊会が始まった。中世には行基を文殊の化身とする信仰が高まって生駒山麓に竹林寺が整備され、行基を尊崇する奈良西大寺の中興叡尊やその弟子忍性らが文殊信仰を広めた。 2013-6-29 朝日新聞より |
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弥勒菩薩 |
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梵名で妹坦隷那(まいとれや)といい慈から生まれたものという意味から慈氏菩薩とも呼ばれている。 普賢・文殊・観世音菩薩が仏教の教義上から見た理想的存在の菩薩であるのに対して、弥勒菩薩は実在の人間であって、釈迦の弟子となり教化を受けて釈迦について未来必ず成仏するという。現に兜率天(とそってん)にあって衆生を摂化しつつあり、釈迦入滅後五十六億七千万年後に再びこの娑婆世界に出現し龍華樹(りゅうげじゅ)の下で成道し、三会(さんえ、仏が成道の後衆生済度のため行う三度の六説法会)の説法を試み、釈迦の化益にもれた一切の衆生を済度する任務をもつ菩薩として考えられている。 将来成仏して釈迦の業績をつぐことから当来仏、弥勒如来(仏)ともいわれて如来形の造像も行われた。 像としては菩薩像中最も古くから造られてきたもので広隆寺像をはじめ、奈良時代までの造像は半迦思惟形(はんかしいぎょう)をとっている。頭部をやや前かがみにして、右手の臂を右膝の上に置いて指で軽く頬を支える様にしていることから之を思惟考える様であると見、右足は左膝の上に平らにのせているが、左足は台座から垂下しているからこれを半迦坐と見てこの姿を半迦思惟形といっている。 また、如来形像は諸仏通用の施無畏与願の印相である。 |
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楊柳観音 |
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菩薩が変身する三十三観音の一つ。衆生から病を救うことを本誓(ほんぜい)とする観音で、大安寺の奈良時代の木彫像が高名。また唐招提寺にも奈良時代の木彫像があり尊名ははっきり確定していないものの、衆宝王菩薩、獅子吼(ししく)菩薩、大自在菩薩と伝えられる異国てきな風貌の像。 | ||||
正了知大将(興福寺・東金堂) |
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金光明最勝王経などにかかれる仏法の守護神で、苦難を取り除き福を授ける神として信仰される。 |
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興福寺では東金堂創建当初から後堂に安置されていたという。寛仁元年(1017)の火災時に、躍り出て焼失を免れたことから「踊り大将」と呼ばれ、希代の霊像とたたえられた。 現在の像は、室町時代(14世紀)に再興されたもの。東金堂後堂(背面)に安置。 甲冑に身を固め、右手はヤリのような武具の戟(げき)。仏法の守護神。足元は裸足。大きくて丸い目を見開いているが、 表情は殺気や威圧感を感じない。 寄せ木造り。高さ167cm。 |
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興福寺・正了知大将 | ||||
龍燈鬼・天燈鬼 | ||||
四天王の足下の邪鬼が独立した姿といわれる。 飛鳥時代の邪鬼、法隆寺金堂のものは両肘を地につけてしゃがみ、四天王も背中に乗っているだけである。 約1世紀後の天平時代の東大寺戒壇院のものは邪鬼は踏みつける四天王を睨み返し、歯をくいしばって耐えている。 鬼・怪物の類は、次第に人体に近づき、動きを増し全身の力をこめて立ち上がった。 |
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龍燈鬼立像 興福寺 慶弁 国宝 |
聖観音
十一面観音
形像は、二臂像が主体で四臂像は余り造られていない。二臂は、右手施無畏、左手に瓶中蓮を持つ。
千手観音
二十八部衆
千手観音の侍者で、この観音の陀羅尼を踊する者を守護するという。密跡金剛力士・那
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