橿原神宮(かしはらじんぐう)地図
南神門 | 外拝殿 後方の山は畝傍山 | |
旧官幣大社 祭神 神武天皇 皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ) |
橿原神宮案内⇒ | |
大和三山中もっとも高い畝傍山の麓に、神武天皇を祭る橿原神宮がある。 付近には神武天皇陵はじめ、第2代綏靖(すいぜい)、第3代安寧(あんねい)、第4代懿徳(いとく)、 第28代宣化(せんか)の諸天皇陵がある。 |
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由緒 神武天皇は天孫降臨の地日向を発して大和に入られ国内を統一して畝傍山の東南橿原の地に皇居営み即位 の礼をとりおこない日本建国の礎を築かれた。 ⇒⇒⇒又は、日向三代 明治の時代になり神武天皇の御聖徳を景仰してこの橿原の宮跡に橿原神宮創建の請願が民間有志から起こり 明治天皇にはこれを御嘉納になり明治二十三年四月二日後鎮座になった。 |
外拝殿より内拝殿 | 内拝殿 |
社殿創建に際し明治天皇の思召により本殿として京都御所の賢所、拝殿(現在の神楽殿)として 神嘉殿の献進があり現在本殿は重要文化財となっている。 昭和十五年紀元二千六百年記念事業として宮域整備拡張事業が行われ幣殿、内拝殿、外拝殿、 廻廊その他付属建物が新たに造営され現在に至った。 |
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神苑境内地は五十万平方メートル(十五万余坪)からなり、 表参道北側の森林植物園その他緑苑は、 紀元二千六百年当時全国各地から奉献された樹木八万本が植栽され、 延百二十万人の勤労奉仕隊によって造成された。 |
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深田池 | 神饌田(しんせんでん) |
「大和川水系の区域内に位置し、築造時期は不詳であるが、万葉の時代から歴史のあるため池で、 奈良時代には築造されたと伝えられています。 当池には、池郷と呼ばれる「ため池管理組合」が組織され、 水の確保が困難な地域の農業用水池として、重要な役割を担ってきました。 当池は、畝傍山の南斜面約13ヘクタールを有する区域から流れ込む雨水が水源であり、 かんがい池としてだけでなく、 豪雨時における洪水調整池としても貴重な役割を担ってきました。橿原市」 |
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「毎朝夕のまつりをはじめ、一年を通じて諸祭典に神前に奉られるお供物を神饌とよんでいます。 橿原神宮では年間の神饌のお米をこの神饌田で田植、稲刈など儀式を古式によって執り行い、 神前にお供えしています。 橿原神宮庁」 |
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橿原神宮伝承地に明治二十三年(1890)神武天皇を祀る橿原神宮が創建された。 現在の神域は、紀元2600年の記念事業として整備されたものである。内苑、外苑に 諸設備が全国120万人の勤労奉仕によって建てられ、全国から献木によって植樹が 行われたが、いまはうっそうと成長している。 |
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初代天皇である神武天皇が、辛酉(かのととり)に即位した畝傍橿原宮。その神武創業 といわれる故地に、約50万uという神域に鎮座。本殿は京都御所の賢所(かしこどころ)を 移築し、神楽殿も同じく神嘉殿(しんかでん)を復元したもの。 |
橿原神宮について | 甦った二千年の地名 | 欠史八代 |
隋から船で三輪山についた | 神話と歴史の不思議な一致 | 六御県ー古代天皇家の基盤ー |
大和へ、神武東征 | 神武東征なぜ九州から |
橿原神宮文華殿(重文) もと天理柳本藩主織田氏の陣屋の大書院および玄関であった。 柳本藩は元和元年(1615)、織田有楽斉長益(信長の弟)の子尚長が、江戸幕府から1万石 をあたえられて開いた藩で、寛永年間(1624〜44)に現在の天理市柳本に陣屋をかまえた。 ⇒⇒⇒ |
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