本居宣長

1730〜1801・江戸時代中期〜後期の国学者
 享保15年5月7日生まれ。伊勢(三重県)松坂の木綿商小津定利の子。本居は先祖の姓。母勝のすすめで京都に遊学し、堀景山に儒学を学び荻生爽徠(おぎゆうそらい)の学風や契沖(けいちゅう)の古典研究に啓発される。また武川幸順らに医学を学び郷里で開業。かたわら国学を研究し、賀茂真淵に入門。古語の実証的分析をすすめ、日本独自の「古道」をとなえた。享和元年9月29日死去。72歳。通称は健蔵。号は春庵。鈴屋など。著作に「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」「玉勝間」「古事記伝」など。
 「菅笠日記」本居宣長が43歳の時、明和9年(1772)3月5日から14日まで10日間、吉野、飛鳥を旅したときの日記。上下2巻。
大和国(奈良県)吉野山の花見を兼ね、吉野水分神社に参詣し、帰路、飛鳥周辺に史蹟を探索、伊勢本街道お通り、美杉を経て松坂に帰郷した。同行者は、友人・小泉見庵、門人・稲懸棟隆・茂穂(大平)親子、戒言(来迎寺の僧)、中里常雄の5名と荷物持ち。学問的な成果も多く、楽しい旅であった。またこの日記は文章、記述、構成も優れ、その後、吉野や飛鳥を巡る人々のガイドブックとしてよく読まれた。

























忍坂街道

 初代天皇である神武天皇は、日向の国を出発後、瀬戸内海を通過し、難波に上陸。長髄彦(ながすねひこ)の抵抗にあったため、迂回経路を取って、熊野から吉野の山中を越え、宇陀から忍坂へと至り、大和平定を成就したと云われている。    
「忍坂道伝承地道」の石碑が、この場所と、石位寺から30m西側にある庚申堂前の

国道166号沿いにある2箇所に建てられています。

これらの石碑は、聖蹟伝承地が数多くある桜井市(当時は町)が、日本紀元で数える

2600年目にあたる昭和15年( 1940年)に建てたものです。

神武天皇東征のとき、東に位置する宇陀(松山)から半坂峠(大宇陀区嬉河原から粟

原山頂上の鉄塔の下)を経て粟原へ、そして忍阪の村を通って宇陀ケ辻への道、ま

た向垣内橋から浅古への多武峯への道.。.これが『忍坂道』なのです。

この忍坂(押坂)の地を『宮』としていたとされる「忍坂大中姫(おしさかのおお

なかつひめ)」が住んでいたとされている忍坂の土地。人の行き交いもあったでし

ょう。

『日本書記』皇極3年(644年)の記載によると菟田山には仙薬とする水銀の鉱床があ

ったとされ、近年まで採掘されていました。

また、宇陀野へは仙薬としての薬草や猪,鹿などの薬物採取を目的として出向いて

いたのです。草壁皇子(日並知皇子)や軽皇子が狩猟していた宇太郡漆部里

まり阿騎野の里への道なのです。この時に忍坂を通る道は出来ていたのです。

街道といわれる前に、すでに「忍坂道」があったと言えます。


「忍坂街道」は平成17年に文化庁により『遊歩百選』として『大和の古道紀行』の

中に山之辺の道などと共に選定されました。

忍阪区

       

忍坂を訪れた文人たち

 万葉学者の犬養孝が、著書「万葉とともに」でも奥の谷の景観を「将来はわからないにしても、せめてこの山ぶところの静けさだけでも、この国の未来にかけてこのまま残っていってほしいものである」と評され、その景観は今も忍阪区民の

手で大切に守られています。

また、桜井市出身の日本浪漫派のリーダーとして名を成した文芸評論家の保田與重郎は自身の短編に、石位寺

三尊石仏を額田王の念持仏ではないかとの考えを示し幅広く世間に紹介しました。作家の川端康成も「ほのぼのとした

暖かいものがある。美少女といった感じでもあろうか」と評しました。

他にも作家の佐藤春夫、井上靖、随筆家の岡部伊都子、俳人の山口誓子、星野立子、水原秋桜子

などが訪れています。

また、写真家の入江泰吉は、たびたび忍阪を訪れ数多くの名作を残しています。

『押坂の古川岸のねこやなぎぬれてやさしき春の雪かな』

(木丹木母集・保田與重郎)















菅原道真

 菅原道真は大変有能な学者であり、漢詩人であり又政治家でもあった。
 奈良時代から続いていた遣唐使を廃止して国風文化の足掛かりを作ったのも道真だった。平安京成立から100年後であった。(894)
 人々の人望もあつく、宇多天皇醍醐天皇に仕え右大臣にまで上がるが、その時の左大臣が藤原時平であった。時平は道真の人望の厚さから藤原家の行く末を案じ、あらぬ罪を道真にかける。道真の娘が醍醐天皇の弟斎世親王王に嫁いでいることを悪用し、道真は醍醐天皇を廃止して斎世親王を天皇にしようとしていると醍醐天皇に作り話をつげる。この事により、醍醐天皇の怒りに触れ、無実の罪にかけられ、太宰府に配流される。太宰府で没し安楽寺に葬られた。
 その後、都では災害が続き、清涼殿にも落雷があった。道真の左遷にかかわった人達も次々亡くなり、時平も38歳(延喜9年・909)で亡くなる。
 これは道真の祟りだとする噂が広がり、天皇は道真の罪を取り消し、官位を与え、この北野に朝廷により、道真を祀る社殿が造営された。
 後に、時平の甥、藤原師輔(時平の弟、忠平の子)により師輔の屋敷が寄贈され、壮大な社殿ができあがる。
 その後衰退するも、現在の社殿は慶長12年(1607)豊臣秀頼が再興した。 

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 寛平6年(894) 、60年近くも中断していた遣唐使の派遣が決まりました。しかし、その大使に選ばれた菅原道真は遺

唐使制度の廃止を建議したのです。その理由として、国力の低下、渡航の危険性を挙げています。

このころには商人による唐との交易も盛んになり、遣唐使の意義が薄れつつありました朝廷財政の逼迫という状況

からも遣唐使の派遣を見直そうとする気運もあったのでしよう。

道真の建議によって約200年以上にわたった遣唐使の制度は廃止され、平安貴族による独自の国風文化が花開く時代

に移っていきます。一方、唐王朝には各地で起きた反乱をおさめる力はすでになく、道真の建議から13年後の907年に

滅亡し、中国は分裂の時代に入っていきます。











鏡王女忍阪墓地図

     
   

鏡女王は近江国野洲郡鏡里の豪族,鏡王の女と言い,

その妹が額田王と考えられています。

二人は近江の水の女、

高級巫女として天皇家に仕えたと考えられていますが。

万葉歌人として著名で、

鏡王女は藤原鎌足の正妻としても知られています。

川端康成や井上靖も訪れ

このあたりのたたずまいを楽しんでおられました。 

 平安時代に出来た「延喜諸陵式」によると『鏡女王・押坂墓』と記載され、大和国城上郡

押坂陵域内東南にあるとなっていますが、いまひとつ押坂陵である舒明天皇との関係が明

確でなく埋葬施設も未調査で築造年代を特定する材料がないのです。

しかし、この場所は忍坂山(外鎌山)の南斜面の小さな支尾根の突端に作られており風水

思想に基づいた終末期古墳の特徴をそなえています。また、この忍坂の地は古くから王権

とのつながりが深く鏡女王の墓があってもなんら違和感のないところであり、この古墳の

雰囲気がつつましやかな鏡女王に相応しく今日も静かにここ「奥の谷」に眠っておられます。

鏡女王は、近江国野洲郡鏡里の豪族,鏡王の娘で、万葉歌人として有名な額田王の姉にあ

たるとされ、二人とも天智天皇に召されていましたが、鏡王女は、のちに藤原鎌足の正室

となられました。奈良・興福寺の起源となる山階寺(やましなじ)は、藤原鎌足が病気の

とき、鏡女王によって建立されたと伝えられています。

鏡王女の記録が少ない中で、「日本書記」によれば、天武12年(683年) 7月4日、天武天

は鏡王女の宮へ行き、見舞ったが、彼女はその翌日に亡くなったと記されています。

墓は、かつて幹を高く伸ばした松の木が十数本植わっていて、写真家・入江泰吉氏もこの

風景を「写真集・やまと余情」などに残されています。今は、杉と檜の木立の中に八重桜

が春の日を浴びて明るい雰囲気を演出しています。

宮内庁管理でなく談山神社の関係者によって維持されていた記録もあり今も、談山神社

管理下で忍阪区の生根会(老人会)が、下草刈りの奉仕作業を行っています。

   
     

鏡王女 万葉歌碑

鏡王女(かがみのおほきみ)の和(こたへ)奉(まつ)れる御歌一首

『秋山の樹(こ)の下隠(したがく)り 逝(ゆ)く水の 吾こそ益(ま)さめ

御念(みおも)ひよりは』  巻2−92

秋山の樹の下に隠れて、流れていく水のように果てしなく、「吾こそ益さめ御念よりは」私こ

そあなたさまが思ってくださる思いよりも もっと深く思っております。<犬養孝 『私の萬葉

画集上巻 1993年12月 潟Oテック社より』

この歌は、皇太子であった中大兄皇子(のちの天智天皇)が鏡王女に送った歌「妹が家も継ぎ

て見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」(巻2ー91)に答えた一首であるといわれてい

ます。

鏡王女は&天智天皇と藤原鎌足それぞれと相聞歌を取り交わしており、額田王との唱和の歌も

作っています。命万葉集には5首を残していて、その一つがこの歌碑に詠われているものです。 わ

ずか三十一文字の中に、内に秘めた女心を見事に詠いあげています。

桜井市の企画によって今から40年前の昭和47年(1972)に市内の由緒ある場所に万葉歌碑を建て

ることになり、元・桜井市議、忍阪区長の杉本五良兵衛翁は、この歌碑は是非この場所に

ということで 毎年生徒さんを引率されて女王墓を参られていた当時,大阪大学名誉教授の

犬養孝先生と面識があったことからこの歌の碑文は、ぜひとも犬養先生にと、なったと述べら

れています。 (昭和62年10月1日「かたらい」より)

歌碑の石材探し、そして置かれているこの場所の選定は、杉本翁の熱き想いと鏡王女がこの歌

に託した想いとが重なって数多くある万葉歌碑の中でも、これほど歌詞と歌碑の佇まいが見事

に合っている歌碑はない...と言われています。小川のせせらぎの音を浴びながら、つつま

しく佇んでいます。この歌碑あたりから谷に向っては視界が聞け、小鳥の囀りだけの万葉の世

界にいざなわれます その目の先には鏡王女墓がひっそりと佇んでいます。

鏡王女は黄泉の世界から、どんな思いでこの歌碑を眺めているのでしょうね。

 




































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