遣隋・唐使
他朝貢

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次数    出発  帰国   雑載
  600年 推古8  不明
『隋書』倭国伝に記録あるのみ 
  不明   
半島問題の為の政治的使節 
隋の中国統一から11年経つ
日本が使節を大陸へ122年に送る
  607年  推古15  大使 小野妹子 
通事 鞍作福利
  608年4月  推古16  隋使 裝世清等13人を伴って帰朝
  608年  推古16 大使 小野妹子
副使 吉士雄成
通事 鞍作福利 
  609年 推古17 留学生 高向漢人玄理
小野妹子帰国
南渕漢人清安 福因 恵明 大国
僧旻 恵隠 広斎
隋使 裝世清等の送使として入隋
  614年  推古22 大使 犬上御田鍬
副使 矢田部造 某
  615年 推古23  犬上御田鍬、矢田部造 某
百済使とともに帰国 
630年  舒明2・8 大使 犬上御田鍬
薬師惠日 
632年8月   犬上御田鍬帰国
唐使高表仁ら来日、唐の柵封を迫るが拒む
 2  653年  白雉4・5 大使 吉士長丹
副使 吉士駒
121人
一隻 
654年7月   南路 大使 高田根麿
副使 帰守子麿 遭難 
同  大使 高田根麿
副使 掃守小麿 
120人
1隻 
    入唐の途中薩摩竹島付近で遭難 
 3 654年  白雉52 押使 高向玄理 
大使 河辺麻吕
副使 薬師惠日
2隻 655年   高向玄理は唐で客死
 4 659年  斉明5 大使 坂合部石布
副使 津守吉祥
2隻 661年5月   帰途第一船南海漂着
 5 665年  天智4

守大石

坂合部石積 

667年2月   唐使 劉徳高を送る
唐使 法聴来日
  667年  天智6 伊吉博徳
笠諸石 
  668年   唐使 法聴を送る
 6 669年  天智8 河内鯨        
 7 702年  大宝2 執節使 栗田真人
大使 高橋笠間
副使 坂合都大分
判官 巨勢邑治
判官 山上憶良
  704年7月
栗田真人
707年3月
巨勢邑治
718年10月
坂合都大分
  遣唐使は初めて国号として「日本」を名乗る
副使は慶雲4・5帰朝
大使は第8次遣唐使と帰朝 
 8 717年  養老1 押使 多治比県守 
大使 大伴山守
副使 藤原馬養
557人
4隻
718年10月    留学生 吉備真備阿倍仲麻呂
留学僧 玄昉らが留学 
 9 733年  天平5 押使 多治比広成
副使 中臣名代
判官 平群宏成
判官 秦朝元
594人
4隻
734年2月
736年5月
739年
  留学生吉備真備・留学僧玄昉
らが帰国
第三・四船遭難崑崙に漂着 広成
等四人のみ帰朝
  746年    中止         
 10 752年  天平勝宝4 大使 藤原清河
副使 大伴古麻呂
副使 吉備真備
120余人
4隻 
753年3月
754年 
  鑑真来朝
帰途第一船安南に漂着
 11 759年  天平宝字3  迎入唐大使
  高元度
99人
1隻 
761年8月   藤原清河を迎えに行くも、唐に
仕え帰朝せず 
高元度等十一人長安に赴く唐使に
送られて帰朝
 12 761年  中止      船破壊のため中止 
 13 762年  中止       便風を得ず中止
 14 777年  宝龜8 大使 佐伯今毛人
副使 小野石根
副使 大神未足
副使 大伴益立
副使 藤原鷹取 
4隻   778年   大使は病と称して行かず
唐使 孫興進来日
藤原清河の娘 喜娘来日
帰途第一船難破
15 779年  宝龜10   送唐客大使 布勢清直
2隻 781年    唐使 孫興進を送る
 16 803~
804年 
延暦22 大使 藤原葛野麻呂
副使 石川道益
4隻 805年6月
  留学僧 空海最澄帰国
第三船入唐の途中松浦郡庇良島
沖で遭難 
 17 836~
838年 
承和5 大使 藤原常嗣
副使 小野篁
600余人
4隻
839年
840年 
  副使は病と称して行かず 
第三船入唐の際筑紫を出帆忽ち
遭難 乗員百四十人入唐せず
 18 894年  寛平6 中止
大使 菅原道真
副使 紀長谷雄
 
     
あ   
  アイセルシュラホール 
  飛鳥・白鳳 
  飛鳥・藤原の宮都 
  安倍文殊院追加 
  阿倍仲麻呂 
  伊弉諾命の禊の生命力 
  井真成 
  井真成の墓誌 
  小山田古墳
  太安万侶
  汚職と新知識で栄えた蘇我氏 
  小野篁と珍皇寺 
 か  
  海龍王寺 
  海龍王寺
  海龍王寺の縁起 
  春日大社 
  栗原塚穴古墳 
  空海 
  遣唐使持ち帰った文化 
  遣隋使・遣唐使
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  玄昉 
  元正天皇
  言霊(万葉人と言霊) 
 さ  
  聖武天皇 重ねた遷都  
  住吉大社 
  住吉っさん 
  菅原道真 
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 た  
  高松塚とキトラ古墳 
  竹之内街道 
  天然痘平城京に猛威 
  道鏡について 
 な  
  難波京 
 は  
  白鳳時代 
  葛井寺 
  藤原宮跡の保存 
  藤原広嗣の乱
  藤原京を捨てた
  法観寺 
  菩提僊那 
  菩提僊那
 ま  
  御蓋山 
 やらわ  
  大和神社 
  水路で大和へ 
  薬師寺東院堂の聖観音菩薩立像 
  律令国家 中央集権国家の誕生 
  留学生と留学僧 
遣唐使 


隋に次いで興り、大帝国として空前の繁栄を誇った唐につ

かわされた日本国の使節。六三〇年(舒明天皇二)の第一回から九世紀中ごろまでの二〇〇年間に、史書で確認できるものだけでも一五回にわたって唐に派遣され、律令制をはじめとする政治制度から学問宗教.文化全般にわたる高度な文明の摂取に努めた。国の使節である大使·副使のほか陰陽師·医師画師.細工生.音声生. 玉生 .鍛生,鋳生ら当時の知識人·エンジニァ.熟練工らが同行し、さらに留学生

留学僧が加わった。遣唐使船は帆船であったが、逆風時は帆を下ろし櫓でこいで進むため多くの水夫も乗り込んで、四艘総勢五〇〇人といった大規模な船団になることも少なくなかつたことが史書から知られる。

 

その他朝貢
第11代垂仁天皇 前29~70     57年 倭奴国王が後漢に使いを送り、光武帝より「漢委奴国王」の金印を受け取る(志賀島出土金印) 
第12代景行天皇 71~130   107年  倭国王が後漢に使いを送り生口160人を献上する 
神功皇后摂政  201~268    239年  卑弥呼、魏に使いを送り「親魏倭王」の号を受け取る 
  250年
ごろ 
壱与は使者二〇人をだして、張政たちを丁重に帯方郡におくりかえすとともに、使者はさらに洛陽に行って、男女の生口三0人、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦ニ0匹を魏の朝廷にたてまつった。
魏の援護を壱与が熱心に期待していたことが察せられる。遣使の年は明らかではないが、卑弥呼の没年から考えて二五〇年ごろであろう。倭人伝にみえる邪馬台国と魏との交涉は、この遣使•貢献記事をもっておわり、魏がこれにどのように関わったかわからない。壱与の外交⇒
  265,6年ごろ  壱与(厳密にいえば、壱与が存命していたかどうかわからない、耶馬台国の)最後の使者が晋の都洛陽にきた。これ以降、耶馬台国に関する記事は中国の史書にあとを絶つ。 
第15代応神天皇
第16代仁徳天皇
第17代履中天皇
第18代反正天皇
第19代允恭天皇第20代安康天皇
270~310
313~399
400~405
406~410
412~453
453~456
  413年 倭国王、東晋に使いを送る
  421年  倭王讃(応神天皇か仁徳天皇か)宋に使いを送る
  438年 倭王珍(仁徳天皇か履中天皇か反正天皇か)宋に使いを送る
  443年  倭王済(允恭天皇か)宋に使いを送り「安東将軍倭国王」の称号を授けられる 
第21代雄略天皇
456~479    462年  倭王興(安康天皇か)宋に使いを送る 
  478年  倭王武(雄略天皇か)宋に国書を送り「安東大将軍倭王」の称号を授けられる
第25代武烈天皇
498~506   502年 倭王武、梁から「征東大将軍」の称号を授けられる 

宋への朝貢
  宋への最初の朝貢の記録は、四ニ一年のことです。五世紀の中国は、漢民族が統治する宋(南朝)と、遊牧民を基盤とする北魏(北朝)が覇権を争う南北朝時代にありました。この時期、朝鮮半島では高句麗が強大化し、北魏に朝貢して冊封を受けたことは、大和朝廷にとって重大な脅威となっていました。これに対抗するため、大和朝廷は朝鮮半島南部における軍事的影響力を維持し、王権を強化するために、百済を除く朝鮮半島南部の地域の軍事指揮権を掌握し続けました。そして、大和朝廷は宋に対して度々使節を派遣しました。
 宋の正史『宋書』倭国伝には、倭国が宋に使者を送り、大和朝廷の勢力が拡大していった様子が記されています。この『宋書』では、讃、珍、済、興、武の五人の倭国王が宋に朝貢したことが記録されており、これがいわゆる「倭の五王」として知られています。五世紀には、すでに大和朝廷が日本列島の大半を統一していたことから、『宋書』に記されている倭国王とは、大和朝廷の大王(後の天皇)を指していると考えられます。これは、宋の冊封体制の中で、大和朝廷の大王が中華風の称号を名乗ることが求められた結果であると解釈されます。
 倭の王は朝貢のたびに、宋の皇帝に対して官位を求めていました。初めのうちは、要求通りの官位を授かることはできませんでしたが、四七八年に倭王武が使節を送った際には、単に「倭王」という称号だけでなく、朝鮮半島南部における軍事指揮権を認められる称号を授与されました。さらに、念願であった「安東大将軍」の称号も同時に授けられました。このことこそが、倭の朝貢の主要な目的であったと考えられます。しかし、その翌年、宋は滅亡してしまいました。
















































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