雷丘(いかずちのおか)地図

 山の辺の道 散策ガイド 飛鳥 散策ガイド 
雷丘(城山)と雷(上山)、間に雷内畑遺跡がある。 雷丘の東方に、雷丘東方遺跡がある。
 金剛山葛城山、の頂きに発生した雨雲は、大和盆地を西から東へ横断し、多武峰、そして盆地の東峰の
山並みに沿って北上する。
 雷丘は、通り道にあたり古来雷がよく落ちる場所であった。 
 天武天皇の朱鳥元年(686)7月、雷が光、税の一つである庸(よう)を収めた蔵を焼いた。或いは、 
忍壁皇子宮(おさかべのみこ)から民部省に延焼したとも伝える。忍壁皇子宮は、明日香村の雷丘付近に
あつた。民部の蔵もその近くに推定される。
雷丘東方遺跡
 「雷丘を含んで、その東方に広がる遺跡です。これまでの調査では、計画的に配置された建物群や礎石建物、
平城宮難波宮と同じ瓦が出土することから役所或いは宮殿の可能性が指摘されていました。
 しかし、昭和62年に小治田宮の墨書土器が十数点まとまって出土したことから、
奈良時代の小治田宮の可能性も高まり、遡って推古天皇の小墾田宮も同地にあった可能性も高まった。」
雷内畑遺跡
 「雷丘と推定されている城山とその南の上山の間でみつかった遺跡です。7世紀中頃の小さな池の護岸の一部が
見つかっており、その後、石積と石敷広場に作り替えています。すぐ東方では小治田宮の墨書土器も出土しており、
おそらく雷丘東方遺跡と一体となって、皇極天皇の小墾田宮にかかわる苑池の一画とかんがえられます。」
 雷丘の東方では、5世紀初頭の韓式系土器がみられ、早い段階から渡来人が活動していた。
 5世紀前半になると香具山西麓の各所などから、5世紀後半には、飛鳥池遺跡などの谷あいからも韓式系土器が
出土するようになる。
 飛鳥寺や歴代の宮殿が造営される地域は、韓式系土器の出土からみると、5世紀に渡来人が定住するまでは
未開拓地であったようで、渡来人が優れた土木技術を駆使しながら、この地の開発に大きな役割を果たしたと
考えられている。
 
雷丘 雷丘東方遺跡 雷内畑遺跡 雷丘 雷 雷内畑遺跡 飛鳥川 雷橋 雷丘東方遺跡
左の丘が雷丘。真東から撮影(ポイント)。  雷丘頂上より、南に飛鳥川をはさんで
甘樫丘
を望む。
大和三山の一つ畝傍山を望む。更に奥には屏風のように、
金剛山(1125m)・葛城山(959m)・大津皇子の墓がある二上山を望む。
三輪山と二上山⇒⇒⇒
石川中山塚古墳群⇒⇒⇒
 高さ20m程(標高111m)東西約90m、
南北約50mの雷丘の上の状態。
5世紀後半の円筒埴輪片数百個、7世紀の
小型石室が出土した。
 
  大君(おおきみ)は 神にし座(ま)せば
  天雲の 雷の上に 庵(いほ)りせるかも
巻3の235  柿本人麻呂
 天皇は神でいらっしゃるので、
天上の雲の、さらに上の雷の上に、
宮殿をお造りになっていらっしゃることだ。
 持統天皇が雷丘においでになった時の歌。
小さな山の上に宮殿は出来そうにもない、
人麻呂の空想。
天皇が雷という名前の丘に登ったという事実から、
天皇がカミナリを征服し、その足下にして
君臨なさった、と歌った。
 雄略天皇三諸山の神の姿をみたいからと、栖軽(すがる)に連れてくるように命じたところ、彼はおそろしい大蛇を捕らえてきた。
声は雷のごとく、眼は炎のごとくで、天皇も大いにおそれ、栖軽は大蛇をこの丘の上にはなしたという伝説がある。 
 人麻呂が「天皇、雷丘に出でます時」に作ったと題する歌で、また、「天皇が雷丘の上に仮の宮殿を建てた」と詠んだ歌もあるが、
それにはあまり小さすぎるという否定論もあり、建物の遺構は見つからなかった。甘樫丘が雷丘との説もある。
 天皇とは天武天皇のことともされている。
 「日本書紀」や「日本霊異記」に、雷神の降臨する説話を伝える聖なる丘であったことが記されており、雷丘の名もこれに由来しているらしい。 

雷丘 畝傍山 二上山