道明寺地図
道明寺天満宮 地図
古代道明寺五重塔礎石
志貴県主神社 地図
国府遺跡 地図
衣縫廃寺跡地図
古室山古墳 地図
黒田神社 地図
石神社(いわ)地図
松永白洲祈念館地図
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道明寺

 道明寺は、古墳造営に携わった土師氏氏寺(土師寺)として7世紀代に建立さ
たと考えられます。土師氏の子孫の菅原道真公ゆかりの寺で、道真公の別名
道明から
道明寺と呼ばれるようになりました。

 当寺はもとは道明寺天満宮の南側にありましたが、明治時代の神仏分離により
天満
宮と分離され、現在地に移転しました。

 江戸時代の境内図から、四天王寺式伽藍配置であったことが知られます。

 本尊の十一面観音菩薩立像は、檜の一木造で、細部にいたるまで緻密な彫技
が施さ
れた、代表的な檀像彫刻として国宝に指定されています。

大聖勝軍寺⇒⇒⇒ 
   
  
  十一面観世音菩薩
(国宝)   

道明寺略縁起

 当寺は菅原道真真公が信心をこめて手ずから刻まれた国宝十一面観世音菩薩像を本尊とする。古義真言宗の尼寺です。

仏法に帰依される処深かった聖德太子がこの地に尼僧の寺院を建立されるに当り代々仏教文化導入に精接的であった
土師という人が邸宅を寄進し東西三百二十米北六百四十米の広本大な境內に五重の塔金堂等をはじめとする七堂伽藍
の完成見ました。これが当寺の前身土師寺て、その後菅原道真公に依って道明寺と呼な改められる処となり、数多くの仏像、
教典美術工芸品,薬品等宝蔵しておりました。土師氏の後裔管原道真公が太宰府に下向されたるとき、叔母覚寿尼を訪れ
て当寺に立寄ら科一首を残され一首を残されています。:

    啼けばこそ別れもうけれ鶏の音の 鳴からむ里の暁もかな

 戦国時代に入リ、高屋の兵乱に当寺も烧失しましたが、之を惜しむ織田信長、豊臣秀吉、德川代々 の将軍家等の庇護に

よって復興成り朱印地に認められました。

 明治五年神仏分離令に徒って堂宇一切を天滿宮境內よリ移し境肉の拡張を经て大正八年には本堂の落成をみ多宝塔を
加え建立以来千三百年法燈絕ゆることなく少ない尼寺として現在に至っております。

       道明寺  

   
 
   
   
     



道明寺天満宮
 
御祭神
 菅原道真公
 天穂日命
 覚壽尼公 
 菅原道真公ゆかりの神社で、古墳造営など土木技術に長じた土師

氏の氏神として成立したとも考えられる。古くは土師神社と称し、

菅原道真公·天穂日命·菅公の叔母覚寿尼を祭神としている。菅公

の遺品として銀装革帯(ベルト)や青白磁円硯など平安時代の美術

工芸の代表作が伝えられており、国宝に指定されている。

 広い境内には、約80種800本の梅林があり梅の名所として知られ

るほか、三ツ塚古墳周濠より出土した修羅の復元品がある。

 垂仁天皇の三十二年(西暦三)、相撲の祖といわれる野見宿祢が、「はにわ」を創って殉死に代え

た功績で、「土師」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜って以来、遠祖天穂日命をお肥りしたの

が土師神社の始まりです。その後仏教が伝来し、推古天皇二年(五九四)、聖徳太子の発願により、

土師八嶋が自宅を喜捨し土師寺が建てられました。

 その土師氏は「菅原」へと改姓し、道真公が現われます。当地には道真公のおば様であります

覚寿尼公がお住まいになられていたことからも、道真公は当地を度々訪問されます。三十六才の

ときには十一面観音像(現道明寺ご本尊、国宝)を彫られ、四十才のときにはひと夏当地に滞在

され、夏水井の水を汲み青白磁円硯により、五部の大乗経を写されました。その経塚から、胚
芽が経巻の形をした「もくげんじゅ」が生え、謡曲「道明寺」にも有名になりました。

 また、宇多上皇の大和河内御巡幸の際にも当地にお伴され「雨中錦を衣て故郷に帰る」と漢詩

に詠まれたことからも、公はこの地を第二の故郷として慕われていました。

 やがて五十七才にして従二位右大臣に進まれましたが、無実の罪で九州大宰権帥として淀川を

下られることになり、その舟の中で、

   世につれて浪速入江もにごるなり 道明らけき寺ぞこひしき

と詠まれ、道明寺への訪問を許されました。 そして、この道明寺で覚寿尼公との別れを惜しまれ、

八葉鏡にお姿を映されて犀角柄刀子で自像を荒木に刻まれ、

   鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな

との御歌を残されて西海に赴かれました。

 公は無実の罪であっても、ひたすら謹慎のまことを尽くされましたが、延喜三年(九〇三)二月

二十五日に五十九才で亡くなられました。

 その後、天暦元年(九四七)に遺し置かれた木像を北丘にお配りし、ご遺品をご神宝として安置

し天満宮を創建、土師寺を道明寺と改称しました。延慶三年(一三一〇)には西琳寺の僧銀阿に神

託があり八葉鏡に勅封を賜りました。

 天正三年(一五七五)当国高屋城の兵乱に、社殿等が焼失しましたが、幸いご神像と宝物等は難

を免れ、この年織田信長公より、また天正十一年(一五八三)と文禄三年(一五九四)には豊臣秀吉

公より、さらに徳川幕府よりも代々の寄進があり、享保年中に霊元法皇中御門天皇より女房奉

書を賜ってから明治初年まで毎年初穂料が下賜されてきました。

 正徳六年(一七一六)の石川の氾濫により、坊舎等は北丘の神社境内に移り、明治五年(一八七

二)、神仏分界により、五坊の中、二之室が神職家となり、道明寺は道を隔てて西に移築され、現

在に至っています。また、明治十年(一八七七)には明治天皇の行幸の際、行在所となりました。

平成十四年(二100 二)には菅原道真公千百年大祭を斎行。

   
 
   
   
   
土師氏窯跡   近鉄道明寺駅前にある
大坂夏の陣 道明寺合戦記念碑
   
   
     
 明治天皇行在所    

古代道明寺五重塔礎石
   
 

 
藤井寺市観光 
 

時代5世紀中葉~後半

埴輪窯20基以上

出土したもの 円筒埴輪、形象埴輪

道明寺天満宮 道明寺から仲姫命陵古墳へと続く東西方向の斜面
には、20基以上の登り窯がありました。 これらは古墳で使う埴輪を
焼いた窯です。ここに市民の方の要望で、 高さ 1.2m、 長さ 5.4m で
窯の一つを復元しています。



志貴県主神社
 
   
 




国府遺跡
衣縫廃寺跡

 藤井寺市惣社·国府周辺で、 集落、 墓、 寺院など、旧石器時代から連綿と営まれた人々の活

動の痕跡を残す埋蔵文化財包蔵地を「国府遺跡」 とよんでいます。

 これまでの発掘調査によって縄紋土器弥生土器とともに 90体にも及ぶ人骨が出土しまし

た。玦状耳飾りなども出土しています。

 縄紋土器包含層の下層からは旧石器時代の石器が見つかり、 約2万年前にこの地で人類が活

動していたことが明らかになりました。

衣縫 (いぬい) 廃寺跡 藤井寺市惣社2丁目

 現在、国府遺跡の史跡公園整備の為に空き地となっている一帯が、 衣縫廃寺跡である。

 1971年 (昭和46) 年に、 発掘調査が行われ、 東西約110m、南北約 80m の大伽藍の

存在が確かめられた。 伽藍配置は、礎石の状況などから北に講堂、東に塔、西に金堂、

南に中門を配す法起寺式と推定されている。 空き地の道路際中央辺りに立っている

 記念碑の台座石が、 塔の礎石だ。 心礎は現在の位置よりやや南寄りで、 地下式だったと

される。 伽藍の大きさは塔が12m 四方、 金堂は東西約20m、南北約15m、

講堂は東西約20m、 南北約15m と推測されている。 出土瓦が飛鳥寺と同笵である事から、

ほぼ同時期6世紀末に建立されたと考えられている。

 8世紀にはこの寺域を含めて河内国府が置かれ、 衣縫寺は国衙の一施設になったと見られ
ている。

 衣縫寺の創建については、高句麗からの渡来僧慧灌 (エガソ) が建立した井上寺説、 付近
に本拠をもつ、衣縫の造 (ミヤッコ) 氏の氏寺説、近くに志紀県主神社があることから志紀郡
の大豪族志紀県主の氏寺説など。

 「国府遺跡」 の名も、 国衙の跡と比定出来る様な遺構は現在のところ見つかっていないが、
古街道が交叉する交通の要地でもあり、街道沿いには幾つもの古代寺院が存在していたこと
から、 国府のあったことはほぼ確実だと思われる。 国府の近くには河内国の市であった 「餌
香市 (えがのいち)」 が在ったことも知られており、 それもこの地域だと推定する説が有力。
市野山古墳の伝承名 「市の山」 も、 餌香市の存在と関連するとみる説もある。 奈良時代のこ
の地域は、当時の幹線道路が交わる辺りに国府が在り、大寺院も在って市場もにぎわう、まさ
に古代の繁華街だったと言えるかも知れない。

 
  詳しい説明⇒
   
 国府遺跡之碑  奥に見える山は二上山
     



古室山古墳
   

時 代      古墳時代 中期前葉
古墳の形    前方後円墳 
墳丘長     150m

出土したもの  円筒埴輪、家盾·蓋(きぬがさ)形埴輪


 墳丘は3段に築かれ、 東側のくびれ部には造出しが認められます。 埋葬施設は、墳頂部に

石材が散在していたことから竪穴式石槨である可能性が推測されます。

 墳丘の周囲には濠が巡るが、豪の平面形が墳丘の形に沿ってくびれていることが確認され

ています。墳丘のテラスには円筒埴輪列が残存しており、形象埴輪も出土しています。

   
   
 



黒田神社
     
   

式內黑田神社御縁起

御祭神
 本社 天御中主大神 天照皇大神

        武甕槌神 經建津主神

        天児屋根命 比咩大神

 末社  天押雲根大神  稲荷大神

      八幡大神 恵美須大神

御由緒 古伝には神武天皇御子神八井耳命のかくし廟

所といわれ仁徳天皇御代に瑞垣を建立し祭祀

されたという。

 现在の御祭神は称徳天皇神護景雲二年に

祭祀され平安時代初期の延喜式神名帳に载る

式内の古社てある。

中世より北條天神或いは天王と称しまた「神名帳

考証」には稲霊を祭るとあり主たる御祭神 天御

中主大神を祭祀するお社は畿内にも少なく御神

徳は極めて高い。

 明治五年村社に列し柏原地区(旧柏原村 市

村新田)北條地区の産土神である。

 かって境内地ば五千坪以上を擁し梅の名所として

「河内鑑名所记」,俳句が残,れている。また建徳二年

寄進の石燈籠一基を蔵す。

 昭和四十四年十月御分霊を柏原市今町塩殿神社に

同市上市春日神社とともに合祀し当社の分社として.

柏原黑田神社を奉斎す。

 
   
   
   
 𡧃迦之魂神  恵比須神社 
   
大鶴大明神    天押雲根之神 


石神社

   
主祭神: 石姫皇女 宣化天皇の皇女、 欽明天皇の皇后。

配祀神: 石長姫命 熊野権現

社格等:式内社(小)  旧社格は村社

創建:不詳 別名: 熊野権現社 (旧称)

神社は、柏原市太平寺地区の生駒山地南端に近い小高い

丘陵の山腹に位置する。 麓の境内に社務所が、 高い石段を

登った所に社殿がある。

日本三代実録には貞観9年 (867年) 2月に官社に

列せられたという記述があり、延喜式神名帳では小社に列する。

江戸時代に入ると太平寺村の氏神として信仰され、 熊野権現社と称していた。

   
 
 石神社の大楠 ご神木
樹齢 7~800年





松永白洲祈念館
 

松永白州記念館 所在地: 藤井寺市船橋町 5-10

 江戸末期に建てられた河内の民家をそのまま記念館として公開し、

この家で育ち、 大和川を愛した書家松永白洲氏の奔放、 多彩な

作品が季節に応じて展示されています。

 記念館は"心ふれあうやすらぎの場”として、 ご家族が公開提供

されておられます。 なお、 記念館の開館日は、 土 日 月曜日の

週3日間。 .

 松永家は江戸時代には庄屋を務め漢方医も四代にわたり輩出し

戦国~江戸時代の古文書、 絵図、 大和川付替え等や医療道具ほか

歴史的に貴重な資料も保有。 河南鉄道の初代支配人だった
松永長三郎が携わった鉄道資料も残されている。