飯豊天皇地図
(北花内三歳山古墳)

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 葛城埴口丘陵 
第17代履中天皇の皇子である市辺押磐(いちのべのおしいわ)皇子の王女(飯豊青皇女・忍海郎女・忍海部女王・
履中天皇の皇孫女)葛城氏の血を引く。
第22代清寧天皇の死後,一時政務を執り飯豊天皇とも称されたが世代には数えない。
(清寧天皇と顕宗天皇との間の期間、執政者だったとも伝えられ、女帝の先駆的存在)
 雄略天皇には容赦のない殺人が数多く伝えられている。
 眉輪王(雄略の兄)と葛城円大臣を殺害したあと、皇位を狙う雄略にとって最大のライバルは、履中天皇と葛城黒姫の間に生まれた
市辺押磐皇子だった。雄略は、皇子を近江に狩りに誘い出し、弓で射殺した。雄略は在位23年でこの世を去る。
 雄略天皇と葛城韓媛との間に生まれた清寧天皇が皇位についた。清寧には子がいなかった。
 明石郡の縮見屯倉首である忍海部造細目の家で、億計王と弘計王の兄弟を見つけ出した。二王は市辺押磐皇子の遺児
だった。父が雄略のために殺されて以来、ずっと同地に身を隠していたのだったが、弟の弘計王が宴席での舞で名乗りでた
のである。清寧は喜び、二人を宮中にに迎え、兄王を皇太子に、弟王を皇子とした。
 清寧の死後、二王は皇位を譲り合った。弟の弘計王は「皇太子である兄が皇位に就くのが当然としたのに対し、兄の億計王
は、身分を明らかにして迎えられることになったのは弟の功績と譲らなかった。最終的には、弘計王が承諾して顕宗天皇となり、
兄の億計王も顕宗の死後、仁賢天皇となるが、二王が譲り合っている間が長かったため、姉の飯豊青皇女が忍海角刺宮で
政治を執った。
 人々は「倭辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮」と歌った。

 古事記では、飯豊青皇女は億計王・弘計王の姉ではなく叔母だったとし、二王の発見は皇女の託宣によるものとする。  
 近鉄御所線忍海駅の西側に角刺神社があり祭神は飯豊青皇女。角刺宮は同社付近にあったと伝承されている。
 追尊天皇
 女帝を考える
 葛城氏

2017−8−11 朝日新聞 (関西大非常勤講師 今尾文昭)

近鉄御所線の近鉄新庄駅の
南に北花内三歳山古墳があり

ます。葛城山が大きく間近に感じられます。古代史上に著

名な豪族「葛城氏」の本拠地にある古墳時代中期末葉〜 後

期初葉(5世紀末〜6世紀初め)の墳長83mの前方後円墳

です。

後円部の直径に対して前方部の幅が広く、まるで干しダコ

のような形です。外側に前方部方向に開く盾形周濠がめ

ぐります。

宮内庁は飯豊天皇の埴口丘陵として管理しています。

「古事記」「日本書紀」によれば、第22代の清寧天皇には

後継ぎがいませんでした。そこで飯豊天皇の登場です。市

辺押磐皇子の遺児の億計王(おけ・のちの仁賢天皇)と弘計王

(をけ・のちの顕宗天皇)が皇位に就くまでの間、忍海角刺
(おしみつのさし)で
臨時に政を担った女性として

登場します。平安時代末の[扶桑略記」は「廿四代女

帝」として歴代天皇に数えています。

一方、「記紀」や「延喜式」が歴代としなかったため

か、この古墳は幕末の文久の修陵まで江戸幕府の治定や修

復の対象外でした。でも、地域社会は三歳山と呼んでいた

ようです。古墳名はこの三歳山によります。陵墓の伝承の

ある古墳は、「陵(みささぎ)」からミサンサイ サンザイ山と呼ぶこ

とが多く、三歳山の呼び名も陵から転じたものでしょう。

墳丘上にあった三歳山八幡宮のうちには、飯豊天皇社が

設けられていました。近世以前から飯豊天皇陵の伝承が存

在した可能性があります。

過去6回ほどあった宮内庁や県立橿原考古学研究所の発

掘調査で、墳丘や外堤の様子がわかるようになってきまし

た。今の外堤は当初のものではなく、その下や外側にも元

の周濠の堆積土が観察されました。周濠は現状よりも広く

なると考えられています。

2005年の宮内庁の発掘調査では墳丘裾に12カ所のト

レンチ(調査区)が設けられました。整備工事の事前デ
を得るための調査でした。

この時の限定公開に私も参加しました。限定公開というの

は現地を報道機関と学界関係者に公開するものです。
ただ
日時や人数に制限があり、観察範囲もトレンチ周辺

に限られます。

印象深かったのは、現況の墳丘裾まわりに沿って掘られ

た溝の存在です。ほとんどのトレンチで観察できました。

全周しているのでしょう。上端幅2.5〜3m、深さ1.

3m以上、逆台形の断面をもつ溝です。

この溝が掘られたために、本来の墳丘がかなり削られて

しまったようです。後円部側は今より直径が大きくなる一

方,前方部側面は今より内側に元の墳丘裾があるだろうと

考えられています。墳形を干しダコと形容しましたが、そ

れはあくまでも現況についての表現です。

出土遺物から、溝は13 〜14世紀に掘られ、近世ぼでに埋

まったことがわかります。用途は謎です。戦乱に備えた防

御用でしょうか。その後の19世紀前半から中ごろのものと

みられる70cm)から1mの盛土があります。さらに、その上

に文久の修陵にともなう厚さ2mに及ぶ盛土があります。

古墳は築造後、3度にわたり姿を変えました。この古墳

では円筒埴輪の出土量が豊富です。溝の掘削作業で、墳丘

第1段平担面の埴輪列が壊されたのではないかと思ってい

ます。だれの仕業でしょうか。今のところ謎です。

  

2017−9−15 朝日新聞 (関西大非常勤講師 今尾文昭)


宮内庁が飯豊天皇の埴口丘
陵として管理する葛城市北花

内の北花内三歳山古墳(きたはなうちさんざいやま)。その

埋葬施設はどのようなものなのでしょうか。

葛城を代表する前方後円御所市の室宮山古墳(墳

長238 m)や葛城市の屋敷山古墳(墳長135m )は、

竪穴式石槨のなかに長持形石棺が据えられています。御所

市の掖上鑵子塚古墳(墳長149 m)も長持形石棺が備わ

るようです。

室宮山古墳が古墳時代中期前葉(5世紀前半) 、ほかは

中期中葉(5世紀中ごろ)以降に築かれました。中期末葉〜

〜後期初葉(5世紀末〜6世紀初め)の北花内三歳山古墳

より前に築かれています。

1879 (明治12 )年の山陵絵図「御陵図」(県立橿原

考古学研究所蔵)の「飯豊天皇埴ロ陵」の図には、後円部

から前方部にかかる場所に石が描かれています。かつて私

は、これを横穴式石室の一部が表れているのではないかと

本に記したことがあります。

県内の前方後円墳の横穴式右室で古い例は、後期前葉

(6世紀前半)の高取町の尾墓山古墳(墳長66m)で

す。それより古いものが北花内三歳山古墳にあるかもしれ

ないと思ったのです。

でも、自説の根拠は2005年にくずれました。宮内庁

の調査で学会に限定公開されたときです。調査区を見に行

く途中、山陵絵図に描かれた石の横を通りました。確かに

石はありましたが、前回に記した三歳山八幡宮で使われた

石材に見えました。石室石材ではありません。結局のとこ

ろ、埋葬施設や棺の材質かたちは不明のままです。

なぜ、絵図を見て横穴式石室だと考えたのか。

北花内三歳山古墳の西約2・5キロにある二塚古墳(墳長60

25)の埋葬施設が、横穴式石室だったからです。葛城山麓

にある後期中葉(6世紀中ごろ)の前方後円墳です。北花

内三歳山古墳が節目となり、横穴式石室に変わったのでは

ないか、と考えたのです。

「日本書紀」「古事記」は、雄略天皇が即位前に「葛

城氏」の首長である円大使主(つぶらのおほみ・大臣)を
滅ぼしたと記しま
す。実年代を知る手掛かり

が、埼玉県の埼玉稲荷山古墳出土鉄剣です。「辛亥年七月

中」や「獲加多支鹵大王」の銘文が刻まれています。辛亥

年は471年、ワカタケルは雄略天皇(大王)にあたると

見るのが定説です。
埼玉稲荷山古墳⇒
古い太刀⇒

北花内三歳山古墳の築造が5世紀末〜6世紀初めとみら

れること、日本書紀で飯豊青皇女(飯豊天皇)が雄略天皇

の後に臨時に政務を執ったと記されていることを考える

と、北花内三歳山古墳が築かれたのは「葛城氏」の滅亡後

だったと言えるでしょう。

では、室宮山古墳や掖上子塚古墳、屋敷山古墳、火振

山古墳といった、北花内三歳山古墳より前の古墳は「葛城

氏」が築いたものなのでしょうか。次回で考えてみたいと

思います。