葛木御縣坐神社地図
柿本神社・影現寺 地図
住吉神社地図
慶雲寺 地図
博西神社 地図
極楽寺 地図
地光寺跡 地図
脇田神社 地図
角刺神社 地図
忍海寺地図

 山の辺の道 散策ガイド 飛鳥 散策ガイド 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
葛木御縣坐神社

 
祭神豊宇気比売神(とようけひめ)
   天津日高日子番能瓊瓊杵尊
   (あまつひこひこににぎのみこと)
延喜式神名帳 神大 月次新嘗
六御縣神社(むつのみあがた)の一つ。
大和では、高市、十市、志貴、山辺、曾布(添)の六縣が、
皇室の菜園に指定されていた。
 大和の南西、大坂との境界を限って、
金剛葛城連麗が南北にのび、山なみの北に二上山
の双頭がある。
 昔はこの山なみ全体を葛城山と総称し、
大和高田市域まで含む広い地域を葛城ノ国と呼んだ。
後の葛城県(あがた)で、天皇家が大切にした直轄領、
大和六御県である。
 古代豪族・葛城氏のふるさととして栄えた里であり、
鴨氏発祥の地でもあった。 
葛城氏
 氏姓の葛城は、かつらぎではなく、かずらぎが正しいとされる。
 山名、地名は現在かつらぎと読みならわしている。
 飛鳥時代に皇室をしのぐほどの勢力を持った大和豪族・蘇我馬子
は、葛城県を賜るよう推古天皇に請願したが拒否された。
 武内宿祢を祖とするという蘇我氏は、葛城を祖先の地として浴した
ようのも見えるが、難波の津に直結する大路、竹内街道の咽喉部に
葛城があったというのが重要。
葛城氏⇒⇒⇒
 葛城氏は雄略帝によってほろぼされた。
 帝はみずから軍隊をひきいて葛城円(つぶら)の屋敷をとりかこんだ。
円は哀願し、
 「なにとぞ命をたすけてください。たすけてくだされば娘の韓媛を奉りましょう」
 韓媛とあるから、朝鮮からきた女にうませた娘なのであろう。さらに円は、
「葛城の宅七区(いえななところ)を献上しましょう」
 と、いった。七ヶ村をさしあげる、という意味だが雄略帝は容赦せず屋敷に火を
かけ、円を焼きころしてしまった。もっとも韓媛は生かした。彼女はのちに雄略帝
のために皇子を生む。清寧帝である。だから円は殺され損であり、このとき葛城
もろとも雄略帝のものになってしまったにちがいない。大和盆地の勢力が葛城山
を圧倒し、古代葛城王朝の末裔はここに絶えたとみていい。
 
街道をゆく 葛城の高丘 司馬遼太郎
 鴨族は葛城(一帯に住んでいた種族で、葛城氏と印象が二重うつしになっている。
葛城王朝の頃は葛城氏が政治をつかさどり、鴨族が祭祀をつかさどるという図式
で考えていいのか、それともごく単純に鴨族のなかの王族が葛城氏であると考えて
いいのか、そのあたりはよくわからない。
 政治的には葛城氏は、5世紀末にほろぶ。しかし鴨族は政治的存在ではなさそう
だからクッキリとはほろびず、ただ葛城の故郷にあってはしだいに衰弱してゆく。
それらは「鴨の神々」をかついで諸国に散る。
 街道をゆく 一言主神社 司馬遼太郎



柿本神社・影現寺(ようげんじ)
     

 「柿本」という氏の名は、「新撰姓氏録」大和国皇別に「柿本朝臣 大春日朝臣同

祖。天足彦国押人命之後也。敏達天皇御世。依家門有柿樹。為柿本臣氏」と記さ

れています。柿本氏の本拠地は新庄町の他、天理市櫟本町の「柿本神社」、橿原

市地黄町の「人麿神社」などが候補地としてあげられています。

 新庄町の柿本神社の周辺地域は、持統文武朝(687~707)ころの宮廷歌

人で、『万葉集』最高の歌人と称された柿本人麻呂持統天皇から領地をたま

わって居住したところという言い伝えがあり、神社の社伝には石見国(現、島

根県)で死去した人麻呂を宝亀元年(770)この地に改葬し、その傍らに神社

を建立したと伝えています。拝殿の南側の「柿本大夫人麻呂之墓」と刻まれた

石碑は、天和元年(1681)大和郡山藩主松平信之が建てたものです。

 神社の境内にある影現寺(ようけんじ)は、弘法大師空海の高弟である紀僧正真済
が天安2年(858) に創建したと伝え、神社の神宮寺となっています。現在の本堂は

十七世紀後半に建立された標準的な三間堂の建物です。紀僧正の作と伝えられ

ている人麻呂像は木造で、はめ込み式の首は、夜中に月の出る方角に向くと

いう言い伝えがあります。 

   
   

 最も優れた歌人として「歌聖」とも称される柿本人麻呂を祀る神社

です。石見国(現在の島根県)で死去した人麻呂を、宝亀元(七七〇)年に

この地に改葬し、社殿が建立されたことが始まりと伝えられています。

 柿本神社の北側にある「影現寺」には木造の人麻呂像があり、「はめ込

み式の首は、歌人であることからか、夜中に月の出る方向に向く」との言

い伝えがあります。

   
歌碑
 春柳 葛城山に建つ雲の 立ちても居ても 妹をしぞ思う
  万葉集11巻2453 柿本人麻呂朝臣 
柿本人麻呂・和珥氏   柿本寺跡    
   
 筆柿
 この木は「ぶどう柿」とも呼ばれ、古来より大事
に育てられ親しまれています。兵庫県明石市人丸
町にある「柿本神社」にも同じ樹齢と思われる筆柿
があり、神木とされています。每年秋にはー、五 cm
〜二、五 cm程の柿色から褐色の筆の穂先のよう
なかわいい実をつけます。
柿本人麻呂之墓
  拝殿の南側の「柿本太夫人麻呂之墓」
と刻まれた石碑は、江戸時代播州明石
から転封となった大和郡山藩主松平信之
が天和元年 (一六八一年 )建てたものです。

影現寺
 柿本山影現寺は、天安ニ年 (西暦八五八年 )に弘法大師空海の直弟子である真済上人に
よって開かれた十一面観音菩後を本尊とする高野山真言宗の寺院です。元来この地には
影現寺の創建前から、柿本人麻呂を祀る柿本神社があり、一説には真済上人は柿本人麻呂
と又従兄弟の関係にあると言われており、苦難の人生を歩んで来たと思われる柿本人麻呂を
弔うために、また、神格化された柿本人麻呂を祀る柿本神社を護る神宮寺として建立されまし
た。柿本神社の周辺地域は、持統・文武朝 (六入七〜七〇七 )時代に「万葉集」最高の歌人
と賞された柿本人麻呂が持統天皇から領地を賜って居住した所という言い伝えがあり、石見国
で死去した人麻呂を、宝亀元年 (七七〇年 )この地に改葬し、その傍らに「人麻呂堂」と呼ばれ
た神社を建立したと伝えられています。
 当山では開創以来、数多くの高僧を輩出し、その中には、梵字悉曇の慈雲流で高名な慈雲尊
者も当寺院に逗留し修行をしたと記録に残っております。 
 本堂は 1 7世紀後半に再建されたもので、薬医門、鐘楼も幾多の天災や、火災による焼失な
どを経ることになりましたが、その都度歴代住職大徳の御精進と、地元の信者様方の温かい支
えにより、その都度再建頂くと言う信仰の厚い寺院であります。
 寺名の影現寺の「影現」の意味するところは 仏、菩蘭が衆生を済度するために来臨されるこ
とを指すとお経に記されています。  
   
 本尊 十一面観世音菩薩  
     四国八十八ケ所お砂ふみ
修行大師


住吉神社
   
 祭神
 上筒男之命
 中筒男之命
 底筒男之命
 
 住吉神社制札屋形
     


慶雲寺

 布施氏の菩提寺となっている臨済宗南禅寺派の寺。

 古くは真言宗に属し、二塚城の近くにありましたが、城主

布施掃部頭行種が禅宗に改宗し、永正13年(1516)3月、
現在地に移して香花寺と号しました。寛永年間(1624~44)、
江戸から梅渓和尚を迎えて初住とし、慶雲寺と号しました。
本堂の大悲閣はやや大き目の三間堂で、正徳年間(1711
~16) に建てられたものです。
 境内に布施行種らの慕があります。

 
   


博西神社
  博西神社は、陵西とも書かれたことがありますが、その創立や由緒について

は明らかではありません。松、杉、槍のうっそうと茂る森の中に鎮座。社殿

は二社あり、最初は第一殿だけでしたが、その後大永二年(1522)に第二

殿が建立されたと伝えられています。

 両殿とも一間社春日造で規模形式とも全く等しく南北に並立して両社殿を、

障塀でつなぎ連結式としています。本殿は身舎側面一間で、土台建の円柱
に舟肘木を組み、軒は二軒繁垂木、妻を叉首組(さすぐみ)としています。

庇は出三斗、中備蟇股(第一殿藤、第二殿牡丹の透彫)、一軒繁垂木で

身舎と繋虹梁で結んでいます。正面は幣軸付板扉、脇障子を側面の前寄りに

立て、切目緑を回しています。現在、屋根は元来の槍皮葺を銅板葺に改めて
います。この本殿は保存がよく、二殿が障塀で結ばれて並立した類例の少な
い形式をもっており、昭和33年、国の重要文化財に指定されました。祭神は、
北殿が下照姫命、南殿が菅原道真。元来祭神は天羽雷命一座であったの
ですが、大永年間(1521~28)、布施安芸守行国が菅公(菅原道真)を勧請して
二座としました。

   
 
   
     


極楽寺

 寺伝では行基の開基としており、本堂

の前には行基菩薩千年忌,千百年忌な

どの記念碑が建っています。南北朝の

争乱で焼失しましたが、応永年間(13

94~1428)に再建され、元禄年間

(1688~1704)再び焼失しまし

た。現在の本堂は棟札から宝暦8年(1

758) に建てられたものです。  

   


地光寺跡
   
地光寺西遺跡 2016年発堀・査の空中写
地光寺西迪跡の北・西側の区画施技を検出した。.
また、北側には、 伽藍中軸線にそって、’小規模
な門が存在したことが明らかとな!った.
 忍海郡(おしみ)でただ一つ古代寺院跡である 地光寺は、
鬼面文軒丸瓦(きめんもんのきまるがわら)と葡萄唐草文

軒平瓦(ぶどうからくさもんのきひらがわら)

が発見されたことで早くから知られています。脇田神社付
近の東遺跡と笛吹字地光寺の西遺跡があります。

 東遺跡では東西両塔の心礎と考えられる2個の礎石があり、
西遺跡では塔跡と思われる一辺11.2mの地覆石(じふくいし)
が検出されています。鉄滓(てっさい)やふいごの羽口(はぐち)
などが出土していることから、鉄生産にかかわった渡来系氏族
の忍海氏の氏寺と考えられています。

地光寺跡の伽藍と条里

 地光寺跡は、薬師寺式伽藍配置をもつ東遺跡が7世紀後半
から終わりごろ、 四天王寺式伽藍配置と推定される西遺跡が
8世紀初頭から前半に創建されたものと思われる。それぞれ

の寺跡を忍海郡部の条里におとしてみると、 前者は条里と一致
しないことから、 条里制が実施される前に建てられていた可
能性があり、後者は寺域が条里と一致することから、条里

制の施行以後に建てられたことがわかる。

 地光寺跡は、鬼面文軒丸瓦や葡萄唐草文軒平が出土する古代寺院として、
古くから知られてきた。
 1972年に実施された発掘調査により、地光寺跡には、東西に並列して異な
る寺院が営まれていたことが明らかとなった。
 東側は、塔心礎が東西ふたつあることから、双塔式の伽藍配置の寺院であっ
たと考えられる。これに対し西側は、ー塔式であった。
 東側が7世紀末、西側は8世紀前半の創建と考えられる。
 鬼面文軒丸瓦は、県下でも出土例が4例と限られる。地光寺跡を除くと、
川原寺跡大官大寺雷丘北方遺跡と、明日香地域に集中し、地光寺跡の例が
特異なものであることがわかる。鬼面 文鼾丸瓦は、近しい例は朝鮮半島新羅に
ルーツを求められる。地光寺跡の位置する脇田は、忍海地域内にあたる。
日本書紀』が、忍海漢人の出身地を新羅としている点と重なり興味深い。



脇田神社

祭神は菅原道真、天照大神、天児屋根

命、市杵島姫命。

社殿は春日造檜皮葺、木造朱塗。覆屋

があり、三方に白壁塗築地塀をめぐら

せています。拝殿は切妻造。コマ犬一

対、石燈瀧三基。

付近には地光寺という古代の寺院遺構

が存在し、境内鳥居そばに東塔の心礎

と考えられる花岡岩の礎石があり、その

中央に円形柱があります。

また、神社西の水田の中にも西塔の心礎

と推定される礎石が残っています。 

   


角刺神社
   
 
祭神は飯豊青命(いいとよあおのみこと)
社殿は東面、春日造で、

屋根は銅板葺になっています。

その前に石灯籠が三基。

拝殿は切妻造棧瓦葺の割拝殿、正面に

「角刺神洞」の額を掲げています。

拝殿前に石コマ犬一対、石燈籠一基、
石鳥居があります。

角刺宮伝承地
 第二十二代清寧天皇が崩御された時、皇太子億計王 (仁賢天皇 )と皇子弘計王
(顕宗大皇 )の兄弟は互いに皇位を讓り合い、なかなか御位に就かれないので姉君
である飯豊青命が代わって、この地で朝政を執られました。 
日本書紀には
  倭辺に見が欲しものは忍海のこの高城なる角刺宮
  
  倭辺:やまとべ
  見:み
  忍海:おしみ
  高城:たかき
  角刺宮:つぬさしのみや
とあり、大層立派な建物であったようです。
 飯豊青命の執政期問は短く、わずか十ケ月余りで崩御され葛城埴口丘陵に葬られ
ました。北西九百メートル先にある飯豊天皇陵がそれです。
 飯豊青命は記紀では天皇としては認められてはいませんが天皇の扱いになってい
る歷史書も古来より数冊残されており、史上初の女性天皇としてその歷史に注目が集まるところです。
角刺神社略伝記⇒ 
   
 鏡池  分水石 右側が欠けている
鏡池 
  境内にある鏡池は飯豊青命が毎朝、鏡代わりに使った池と伝えられています。
またこの池は蓮池とも呼ばれていて、當麻寺中将姫が曼荼羅を織るための
蓮糸をこの池から採ったと言われています。
分水石と九平さん
 江戸時代後期に忍海と近隣の村との水争い
 火柱を抱くものがあればその村の主張を聞くの話が出ました。
 そこて忍海の九平さんが犠牲的精神を持って火柱を抱いた結果、忍海に有利な
割合て水を分けることが出来ました。
 ここにある分水石は当時の決められた割合通り水が流れるように溝幅が刻まれ
ています。この石は忍海の西にある戸分ケと言う分水地点にあったもので住宅団
地開発に伴い当地に移転し保存されています。
 九平さんはその後当時としては長生きをして明治八年に亡くなられましたが村を
救った義民として今も親しみをもって九平さんと呼ばれ祭られています。
 ここに遣德を偲び功績を記します。
  平成二十年十二月
  忍海土地改良区
 角刺神社



忍海寺(にんかいじ)
 
 本尊 十一面観音菩薩
飯豊天皇の顔をうつした
ものといわれている
 
   
忍海寺
 角刺神社境内に建つ忍海寺は神仏習合の表れとして神社置かれた寺院である神宮寺です。
本尊の観音菩薩立像は飯豊青命が仏の姿で現れたものではないかと伝えられています。
 平安時代に建立。