南渕請安地図
写真一部はK・I氏ご提供
南淵請安明神塚 | 竹野王石塔 | ||
祭神 藤原鎌足 社殿 春日造 旧社格 無格社 明神塚という小さな丘に鎮座している。 寛文2年(1662)建立。 明治43年(1910)に飛鳥川上坐宇須多妓比売命神社の境内社である 仁徳天皇社の合併されたがその後、旧社を復して現在に至る。 |
推古16年(608)遣隋使学問僧として小野妹子らに従い、 派遣された南淵請安は、渡来系漢人である。 在唐32年舒明天皇12年(640)帰国し、大化の改新を計画した、 中大兄皇子・藤原鎌足らに周孔の学すなわち儒教を教えた。 没年は不明であるが飛鳥川の上流南渕に居住したと伝える。 藤原鎌足:談山神社、大原の里 |
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竹野王石塔 龍福寺境内にある多重石塔である。龍福治寺は、飛鳥川上流、稲淵にある。石塔は役80cm、四重目の軸部まで残存しているが、本来は五重塔 であったと考えられている。 初重軸部の背が高いのは石塔の中でも古い様式を見せるものである。 石塔の石材は、二上山で産出する凝灰岩である。 構造は、各軸部と屋根材を別材で積み上げられている。 屋根裏は、普通の石造層塔では水平であるが、竹野王層塔では内側の奥に向かって傾斜して作ってある。この特徴と似たものに、奈良市南田原に ある塔の森十三重石塔があり、この特徴は奈良時代後期前半の一手法と考えられている。ほかにも、第四層の軸上面には円形の孔があいており 、舎利容器、或いは経巻を納めていたと考えられている。 竹野王に関する刻銘は、一番下の初重軸部の四面にある。風化や破損が著しく、、判読が困難な部分もあるが、造立主体舎と造立年代を読み取る 事が出来る。 刻銘は3cmほどの文字で、体裁は一面に八字詰め七行の字配りである。奈良時代後期の特徴である。 東面の第1面から「昔阿育・・・」であじまり、なかほどに「朝風南葬談武之峯北・・・」と刻んでいる。北面の第4面には、「天平勝宝三年歳次 辛卯四月 廿四日丙子 従二位竹野王」とある。 これらの銘文によって、石塔が、天平勝宝3年(751)に「朝風」という地に竹野王によって造立されたということが分かる。 朝風という地名は、現在の飛鳥川と檜前川との間にある丘陵地と考えられ、現在でも小字「アサカゼ」が残っている。 |
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