大原の里地図

大原神社
大原の里 藤原鎌足誕生地
   
 大織冠誕生の碑  大原神社
 藤原鎌足は、「大織冠伝」によると、推古天皇22年(614)、大倭(大和)国高市郡の人として、
藤原の第(邸宅)に生まれたと記されている。藤原は現在のここ明日香村小原の地である。
 鎌足は、中大兄皇子(後の天智天皇)を助けて、「大化の改新」を推進する。
669年臨終の床で、天智天皇から、最高位の「大織冠」の冠位を与えられ、その後、
一千年以上も続く藤原氏の祖となった。
 飛鳥坐神社より通じるこの道は、ここから東へ上ること約4kmの山頂にある、
鎌足を祀る「談山神社」への表参道である。
阿武山古墳  律令制と天皇 石の女帝  栄山寺(語り部) 
藤原氏  政争と陰謀で増えた墓  さねかずら  鏡王女に賜った歌  
倉山田石川麻呂  飛鳥河辺行宮   白村江の敗戦  聖林寺 
鏡王女の出自  朝風の棚田と飛び石 和田萃   藤原京を捨てた  新田部皇子への献歌 
乙巳の変の飛鳥       
 中大兄皇子とともに蘇我本宗家の打倒を計画、実行した中臣鎌足。乙巳の変の後に即位した
孝徳天皇、皇太子の中大兄皇子のもとで内臣(うちとみ)となり、新制度の立案を指揮して皇太子
を補佐するなど、政治改革に尽力した。中大兄皇子が天智天皇として即位してからも、礼儀、
律令の撰定に着手したといわれる。天智8年(669)10月鎌足が病に伏すと、天智天皇は
大海人皇子を鎌足の邸宅につかわして大織冠と大臣の位を授け、藤原の姓を賜ったが、
鎌足はその翌日に邸宅で息を引き取った。
 多武峰縁起によれば、鎌足の墓はのちに大和国の多武峰に移されるが、初めは摂津国
の阿威山にあったという。大阪府高槻市と茨木市にまたがる阿武山古墳がその墓とみられ
ている。
横口式石槨には夾紵棺(きょうちょ)が納められており、棺には40〜60歳の男性が葬られ
ていた。天皇に準ずるような身分を示す玉枕(たままくら)や最上位の識冠とみられる冠帽が
出土したことから、被葬者は56歳で亡くなった中臣鎌足だと考えられている。
 
 産湯の井戸
 
大伴婦人の墓
 大原神社左手の森には、鎌足の母「大伴夫人」の墓がある。
墓は東西11m、南北約12m、高さ2.4mの円墳である。
また、藤原鎌足の誕生地とも伝えられている。
大原神社の奥の竹田川のほとりには、藤原鎌足産湯の井戸がある。


大織冠
定慧  多武峰  年表669年 
多武峰   大原の里  律令制と天皇 
舒明天皇  阿武山古墳