飛鳥坐神社(あすかにいます)地図

飛鳥東垣内遺跡

 甘樫丘から、飛鳥川をへだてた真下にまっすぐに延びる1本の細い道、
美しい飛鳥坐神社の参道である。
鳥形山に鎮座。
 「〜坐(います)」:「〜という地域に鎮まっておられる(神)」
 神道は、大陸伝来の仏教に対し、日本古来の信仰であるが、その信仰を現す神

社は、大部分規模が小さく簡素質朴である。この神社は神託によって829年3月10

日現在の地に鎮座し、この地最古のものと伝えられる。鬱蒼とした森の中にあって

神のおられる所という意味で呼ばれる“神奈備”の雰囲気がよく現わされている。(飛

鳥における神奈備は大和三山や、栢森などがある)

毎年2月の第一日曜日には天下の奇祭「おんだ祭り」が行われ五穀豊穣・子孫

繁栄を祈願する参詣者でにぎわう。

  動画    飛鳥坐神社おんだ祭⇒⇒⇒ 
全動画⇒⇒⇒  
鳥居
祭神 飛鳥四社
 事代主神(ことしろぬし)
 高皇産霊神(たかむすびのかみ)
 飛鳥三日比神(みかひめのみこと・事代主の妹)
 大物主神
延喜式内大社旧社格 式内大社、村社社殿 延喜式⇒⇒⇒
流造延喜式神明帳高市郡の飛鳥坐神社で天長6年(829)、
神託によって現在の地に遷座された。
   
 拝殿    境内には80の末社があったと伝えるが、
享保七年(1725)に火災により本殿以下焼失、
旧態はまったく失われた。

坐 :〜という地域に鎮まっておられる(神)の意
 飛鳥寺東北方、飛鳥の甘南備山
(かんなび=神名備、神奈備)で神のなびく所、
神の依る場所という意味で、飛鳥神は飛鳥
地方を代表し、
しかも皇居に近く、飛鳥の中の飛鳥というべき
聖地近くに鎮座してその守護神として尊崇された。
拝殿と社殿は、ダム建設で水没寸前だった丹生
川上神社上社の社殿から移築された。
本殿は天明元年(1781)に再建された。
 飛鳥の甘南備山(かんなびやま)から平安朝初めの天長6年(829)に大和国高井郡加美郷甘南備山から現在同郷の鳥形山の地に遷座。高井加美郷は、飛鳥寺や飛鳥京跡が広がる明日香村の中心部。飛鳥・奈良時代には飛鳥社(飛鳥坐神社)は飛鳥の甘南備山にあった。
 甘南備山については、これまで雷丘や甘樫丘とする説もあったが、今日では橘寺のすぐ南方の「ミハ山」とする説が定説となっている。現在では「ミハ山」や「フグリ山」は国営飛鳥歴史公園祝戸地区として整備されている。
 本社には氏子がなく、社前の神主・飛鳥家によって、代々奉斉されている。飛鳥弘文宮司は87代目。商売繁盛のえびす様で知られる事代主神(ことしろぬしのかみ・・・大国主命の第1子)から数えて7代目の当主が初めて「飛鳥」の姓を名乗ったという。
 民俗学者で歌人折口信夫(しのぶ・1887〜1953)は祖父が飛鳥家の出身。

     
神楽殿
 元来は禊の神だったが、後世になって男女結合の神と信じられ、
現在でも御田祭(おんた)りという奇祭がおこなわれている。
 境内には多数の陰陽石が祀られ、子授けの神、結びの神、幸福を招く神として知られ、
2月第1日曜日に御田祭(おんだ)りが神前でおこなわれる。
天狗とおかめの面をつけた青年男子が、水田耕作の仕草をしながら、性の結合を神の前で演じる。
神前で性行為を行うことで五穀豊穣を祈るものである。
 この風習が、やがて男同士で行う模倣行為となって、御田祭りのスタイルが全国的に定着していった。
 昔は、田の縁で性行為を行うという風習もあり、これも増産を祈願するための行為であった。
 2月第一日曜に五穀豊穣と子孫繁栄を願う奇祭「おんだ祭」がある。
 前半は田植えの様子を演じる。
後半は夫婦和合の儀式があり、お多福が両手で顔を覆ったり、恥じらいのしぐさなどする。
御田植祭り 陰陽石信仰  国生みの神話  飛鳥坐神社 和田萃 
祭り  三輪山と二上山  甘樫丘から 和田萃   

飛鳥山口神社地図
祓戸社 飛鳥山口神社 奥の社
祭神
 瀬織津比盗_
 速開都比盗_
 気吹戸主神
 速須佐良比盗_
祭神
 大山津見乃神
 久久乃知之神
 猿田彦乃神
祭神
 天照大神
 豊受大神
奈良の山口神社について⇒⇒⇒  


折口信夫
飛鳥坐神社  御田植祭り  石上神宮と飛鳥 
大嘗祭  大嘗祭  石光寺 
三輪山と二上山  善きものは海から  飛鳥坐神社 和田萃
 大嘗祭儀式 言霊(万葉人と言霊  


飛鳥東垣内遺跡
狂心渠(たぶれごころのみぞ)、
飛鳥垣内遺跡の脇を今も流れる中の川。
当時は幅10mのものと現在の休憩所。
飛鳥東垣内遺跡
 平成11年(1999)、飛鳥東垣内遺跡で7世紀中頃の幅約10m、深さ約1.3mの南北大溝が発掘された。
この溝は飛鳥地域の中でも最大級のもので、物資を輸送する運河と考えられている。
また、飛鳥池東方遺跡や飛鳥宮の下遺跡、奥山久米寺の西方でも見つかっており、
総延長は約1km以上にも及ぶ長大なものになる。
 「日本書紀」でみると、斉明天皇2年(656)の条に石上山(いそのかみやま・天理市豊田山)の石、
天理砂岩を運ぶために渠(みぞ)を掘って舟運で運び、宮の東の山に石垣を造り、石の山丘と呼ばれたことが記されている。
時の人はこの渠を「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と呼んでいた。砂岩⇒
 「宮の東の山の石垣」とは、南方にある酒船石遺跡のことであり、この大溝も酒船石遺跡の東裾から伸びている。
飛鳥東垣内遺跡の大溝は、その規模や掘削時期・位置からみて「日本書紀」に記載されている「狂心渠」の一部である可能性が高い。
亀形石造物  飛鳥東垣内遺跡  酒船石
天理砂岩と豊田山 石上について 両槻宮  
 先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)には大己貴神は神津姫神を娶って一男一女を生み、その御子神である事代主神が、
高市社である甘南備飛鳥社に鎮座されている、と記載されている。
 高市とはうてなの斎場と呼ばれ、小高い所にあつまるまつりの庭を意味するといわれている。
 万葉集の中でも、飛鳥神南備は人々の信仰も篤く手向けの山として数多く謳われている。
飛鳥寺 万葉文化館 狂心渠 飛鳥坐神社 現在地