太子道筋違道(すじかい)地図
白山神社
地図
屏風 杵築神社(きすぎ)地図
忍性生誕地碑地図
浄土寺地図
額安寺地図
推古神社地図
額安寺五輪塔地図
額田部窯跡地図
融通時地図
来迎寺地図
光明寺地図
素戔嗚神社地図
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太子道筋違道)
 
屏風 杵築神社前にある太子道の標識 
 
 法隆寺7km、飛鳥・橘寺14.2km
 聖徳太子が、自らの学問所建て住まいである斑鳩宮から飛鳥の小墾田宮まで往来に使ったといわれている約20kmの道。
斑鳩と飛鳥を最短距離で結ぶよう造られ、北北西に20度傾いた斜行道路。
 聖徳太子が飛鳥から宮古・伴堂を経て屏風を通り東院を過ぎ斑鳩・法隆寺へ従者の調子麿(ちょうしまろ)を連れて通われとき、
屏風の白山神社で愛馬(黒駒)を止めたという駒つなぎ柳や、腰を掛けて休まれたという腰掛石が残されている。
 白山神社の前にある屏風杵築神社の拝殿には、太子接待の絵馬も奉納されている。
横大路にある太子駒つなぎの石 下ツ道 中ッ道 上ッ道  丸山古墳 
太子道(安堵町) 横大路 竹ノ内街道
奈良盆地の古道と都 法隆寺の謎 黒田大塚古墳
推古大道     

 聖徳太子が通ったという太子道は主に二つの経路があるという。ひとつは、住

まいがあった斑鳩から政務を執る飛鳥に向かう道で、奈良盆地を斜めに横切る

「筋違い道」・「すじかひ道」とも呼ばれる、いわばパイパス。もう一つは、

斑鳩と太子の墓所である磯叡福寺(大阪府太子町)とを結ぶ山越えの街道だ。

 太子建立の法隆寺では毎年、11月22日に飛鳥ルート(約20 km)、2月22日に磯

長ルート(約19km)を歩く「太子道をたずねる集い」を催している。2月22日が

太子の命日にあたることによる企画である。

 今回取りあげる飛鳥ルートは奈良盆地の田園の中を行く平坦な道。

法隆寺を出発して小一時間で着く飽波神社地図(安堵町)は、太子が掘ったと伝

わる井戸に近い。

 そこから南東へ約4km行った三宅町屏風は太子が昼食をとった場所といい、
太子のために屏風を立てたのが地名の由来だ。太子が腰掛けた腰掛石があり、
すぐそばの杵築神社に残る「ぴょろぷの清水」という井戸跡は太子が放った矢
によってわいたとされる昼食の休息をとれる場所は当然水を十分確保できるところ

でもあったのではないか。

 太子の時代ではないが、飽波神社と杵築神社との途中にあって「集い」の一行

も立ち寄る、油掛地蔵(川西町吐田、1523年造立)も水に縁がある。水害が多い
場所なので、お地蔵さんに油をかけて「水をはじいて」と祈ったのだとか。

 こうした逸話がルート上のあちこちにある。これは、行程がほぼ飛鳥川に沿

っていることも無縁ではないように思われる。水をどろやって手に入れるか、水

害をどう防ぐかは、いつの時代も難問だった。それが解決することへの祈りと、

聖徳太子の信仰とが結びついていったのだろうか。
  2009-1-6  朝日新聞 (小滝ちひろ)


 法隆寺の「太子道をたずねる集い」が22日、斑鳩町の同寺から聖徳太子墓があ

る大阪府太子町の叡福寺までの「磯髟ルート」で開かれた。この日は、太子(57

4~622)の1388回忌。約230人の参加者は19キロのルートを完歩した。

晩秋の11月22日に催される、法隆寺ー明日香・橘寺間の小治田レートは太子の

通勤路をたどるが、磯長ルートは葬送の道。没後、太子信仰が仏教にどう取り込

まれていったのかをうかがうことができる。

 スタートして1:時間半で、王寺町の達磨寺に着いた。臨済宗南禅寺派に属

し、片岡山の山号を持つの禅寺には、創建にまつわる太子の伝説がある。

 太子が片岡山で餓死寸前の人に食べ物と衣服を与えた。善意実らず亡くなった

その人を手厚く葬ると、墓から遺体が消え、太子が与えた服だけが丁寧にたたま

れて棺の上に置かれていた。近隣の人々は「あれは達磨大師の生まれ変わり

だ」とうわさした。そして太子が達磨の像を刻み、それがまつられるようになっ

た、というのである。

 境内には達磨寺境内古墳群という3基の古墳があり、築造時期は太子存命中

の6世紀後半ごろ。現・本堂の下にある円墳の3号墳には、達磨の墓という伝承

もある。ほた、この場所は中近世にあった本堂の基壇でもあり、そこからは水晶

製の舎利容器と仏舎利(いずれも14世紀前半ごろ)が出土している。中世の仏教

が目指した釈迦への回帰、釈迦信仰を伝える品だ。

 聖徳太子の信仰、達磨大師と禅宗、釈迦信仰。「集い」の講師を務めた考古学

者で僧侶でもある前園実知雄・奈良芸術短大教授は「日本の仏教を凝縮したよ

うな寺」と話していたが、本当に奥深さを感じさせる場所に違いない。

 一行はさらに南下する。ここは浄土宗の寺院。境内前の案内板によれば、浄

土宗の開祖・法然(1133~1212)が法隆寺・夢殿での祈願や聖徳太子墓の

参拝の途中に立ち寄り、本尊の阿弥陀如来を拝んだという。ここにも中世仏教と

太子のかかわりが見える。

 昼食を終えて向かったゴール、叡福寺は空海や親鸞、日蓮などが訪れて太子

をしのんだ寺だ。太子墓の前では、法隆寺の大野玄妙管長らが聖徳太子和讃を唱

え、太子をまつる聖霊殿前で般若心経をあげた。

 太子の時代に始まる日本の古代仏教は、中近世の信仰にも影響した。そして現

代。その影は色濃く、太子道を歩いて訪ねる人々に受け継がれていることを実感
した。
  2009-2-24  朝日新聞  (小滝ちひろ)
 


白山神社 
   
 白山神社  黒駒に乗る太子像

【太子道を往く聖徳太子】

 聖徳太子が愛馬の黒駒に乗り従者調子磨を従え、斑鳩宮から飛鳥の小墾田宮へ通われ

た道を「太子道」と呼んでいる。白山神社には太子が休憩された「腰掛石」や黒駒をつな

ぐ「駒つなぎの柳」が残っている。また、杵築神社には太子が矢で示されたところから「矢

じりの井戸」や「太子接待の絵馬」などもある。

 この「屏風」という地名は、村人が太子をもてなすとき屏風をたてて風を防いだことから

名づけられたと伝えられている。 

 太子を偲び昭和5年この地に聖徳太子が愛馬黒駒にまたがり、屏風を往来され

る像「黒駒に乗る太子銅像」 が建立された。(銅像は第二次世界大戦中、 金属類

の献納でとりはずされ台座だけが残されている。)

 
   
 腰かけ石   駒つなぎの柳

 聖徳太子は飛鳥の里から宮古・伴堂を経て屏風を通

り唐院を過ぎ法隆寺に通っておられたこき屏風の里の

白山神社で駒を止め柳につなぎ「腰掛石」に腰かけら

れて休憩をとられたといいつたえられている。

三宅町教育委員会 

 宮古から伴堂を経て屏風に向かって走る道路で法隆寺
建立のため聖徳太子が「飛鳥の里」から「三宅の原」を経
て「斑鳩の里」を往復された道路で太子道といわれ北北西
に筋違いになっている。


屏風 杵築神社

   
 拝殿  本殿
 
 
     
祭神 須佐男命  旧無格社  大字久保田平楽寺   社名 須賀神社
 拝殿に「おかげ踊り」絵馬「聖徳太子接待」絵馬が奉納されている。
拝殿北側には、太子が弓で穿かれたと言われている「屏風の清水」も残されている。  
  屏風 杵築神社には、太子が矢で示されたところから矢じりの井戸や太子接待の絵馬などもある。
屏風という地名は、村人が太子をもてなすとき屏風をたてて風を防いだことから名づけられたと伝えられている。 
 安堵~窪田周辺一帯は低地であり、河川浸水に幾度も脅かされてきた。

そのため素盞嗚命を祀り、祈り鎮めるため、周辺諸所に杵築神社を祀っている。 祇園を守護する神・牛頭天王
同一視される場合もある。

 



忍性生誕地碑

 良観房忍性上人は鎌倉時代の律僧で、建保五年

(一二一七年)七月十六日に父伴貞行、母・榎氏

女の子として、大和国城下郡屏風里(現在の奈良県

磯城郡三宅町屏風)に誕生した。母の影響で幼少

より文殊信仰と行基崇敬に親しみ、母の逝去を機に

十六?で額安寺で剃髪、延応 元年(一二三九年)

以降は西大寺中興開山の興正菩薩叡尊上人に師事

L て、額安寺西辺や般若寺、奈良坂近郊の北山宿

などで文殊供養と貧窮孤独者施行を併せ行い、宝治

二年(一二四八年)には同法定舜が宋から将来した

律三大部を鎮西から西大寺に納置するなど、叡尊と

ともに文殊信仰宣揚と戒律復興に尽力した。 建長

四年(一二五二年)東国布教のため関東に下向L

常陸三村寺ついで鎌倉極楽寺を拠点に教線を拡めた。

とりわけ民衆救済に生涯を捧げ、貧窮民への施設や

療病所.浴室の開設、架橋,造路,堀井などの社会

福祉活動に多大な業績を残した。そ の一方、
蒙古襲来の際には北条時宗の命に応じて祈祷に大功
あり、朝幕の帰依も得て摂津多田院別当、東大寺
勧進職、四天王寺別当などの重職も歴任した。

 嘉元元年(一三〇三年)七月十二日極楽寺で入滅。

世寿八七?。御遺骨は極楽寺、額安寺、行基廟所で

ある生駒竹林寺の三ヶ所に分葬され、寸べて中世

一の石製五輪墓塔の貴重な遺例となっている。嘉歴
三年 (一三三八年)に後醍醐天皇より菩薩号が諡ら

れた。

 
   
   


浄土寺
   



額安寺
   
本尊 十一面観音 山号 熊凝山(くまこりさん)額安寺  古名 額田寺(がくでんじ)
宗派 真言律宗
  聖徳太子は、ここに学問修行の道場熊凝精舎を建てられ、叔母君推古天皇

は、この精舎に寺号《額安寺》を賜 つたと伝えられています。

 このあたりは古代水運の要所で外国使臣や文物の上陸場所であり、額安寺は、そ

の受け入れロに規模壮大な七堂伽藍を備えた寺院として臨んでいました。しかし

時と共に衰頽し、鎌倉時代には僧忍性等によって一時復興されましたが、のち兵

火のため講堂一宇(今の本堂)を残すのみとな ってしまいました 。昔日の俤は失

われましたが、額安寺の根本本尊は日本最古の虚空蔵菩薩像として極めて価値高

く著名であり、奈良時代の法灯は連綿と今に受け継がれています。

  平成五年十月 大和郡山市 

 百済寺の前身と言われ、 飛鳥の大官大寺となり、さらに平城京に移り大安寺となったとの伝承。

 寺名の由来は、太子の叔母 推古天皇が、 額の傷の回復を祈願したことと言われる。
百済大寺⇒

 寺伝では、この地出身の道慈律師 (大安寺の建立者: 俗姓 額田氏) が、 唐から持ち帰った
虚空蔵菩薩を安置し建立。 寺伝の 「額安寺斑田図・ 国宝」 によれば、天平宝字年間 (757-765)
にすでに額安寺の存在が認められる。
 最盛期には、南北2丁 (220m)、 東西3丁(330m) に、 規模壮大な七堂伽藍を備えていた。

 鎌倉時代に、叡尊忍性 (良観上人) によって再興されたが、 明治の廃仏毀釈等で衰退、

現在は金堂を残すのみ。 昭和50年(1975) から補修建設され、 平成17年11月に落慶法要。

【寺宝】 《重文》 乾漆虚空蔵菩薩半跏枷像 《重文》、 木造文殊菩薩騎獅像 及び 五輪塔納置品など、

 
石造宝篋印塔《市指定重要文化財 》
 寺前の鏡池 (明星池) の池島に立つ。 文応元年(1260) 10月15日付

「願主永弘 大工大蔵安清」 銘があり、寺伝によると、住職・慈真が母の
ために造立したと言う。

 我が国3番目に古い, 美しい石造宝篋印塔

額安寺に安置されている「仏舎利」の由来

 そもそも額安寺は、 聖徳太子御創建の学問道場であります。

 太子は、お釈迦さまの仏教精神を政に導入され、 仏教国日本の

礎を築いたお方でありました。 そして、 はるか1300年の時を経た

平成19年、お釈迦さまの御遺骨「仏舎利」がこの地に奉納されました。

 この仏舎利は、世界的に高名な宗教画家、 故杉本哲郎画伯が大

変親交の深かったインドのネール初代首相より手ずから贈られたも

のです。画伯が亡くなられた後、 太子ゆかりの額安寺こそ永久保存

にふさわしいとご遺族が決断され、 この寺に御着地になられました。

 2500年の時を経ての仏教国日本、 そしてこの大和の地に御着地

という奇跡。

 皆様と共にこの奇跡を慶び、 現世·来世の安寧を祈願いたし、こ

の国に再び愛と融和と幸せを呼びさませ給うことを。  

   
   
忍性生誕地碑  忍性墓  大聖勝軍寺 
大官大寺  忍性   忍性社寺復興 



推古神社
   
   
 
   
  正一位 年明大明神  




額安寺五輪塔
 
   
忍性の遺骨が入った骨
臓器が見つかった五輪塔
 2022-1-15産経新聞

額安寺五輪塔群 《重文》
 (俗称: 鎌倉墓) 付近を鎌倉坂という。

高さ 約3.3mの大石塔を始め、 八基の五輪塔が並立し、 国指定重要文化財。

二基に刻銘があり、 「比丘璋尊六十一 永仁五年(1297)十月五日」

             「従五位上丹波守朝臣盛房五十六 永仁五年七月八日」
                                           と刻む

 平盛房: 六波羅探題 (南方) 務めた北条盛房

 昭和57年(1982) 五輪塔群の解体修理に伴い、 地下遺構の

 調査を行い、 八基中 最大の五輪塔 (無銘) の地下から、

 忍性銅製舎利容器、 嫡弟・ 賢明の骨蔵器外 11点)、 及び

 五輪塔群配置を示す寛永11年 (1634)の古地図

 (大和史料)などが見つかった。 《何れも重要文化財》

 
 忍性社寺復興    


額田部窯跡
 

額田部窯 跡

 昭和4年(1929 ) 4月2日、 国指定史跡。

 鎌倉時代の瓦を焼いた窯跡群。窯は全部で3基が見つかっている。現在覆屋

をかけて保存しているのはもっとも西側の1基である。窯は低い丘陵の斜面を

掘り込んでつくった全長約2m、幅約1mの小規模な平窯て、3基とも同形、

同大である。焼成室にロストル(分焰柱)がつく構造で、南側が火を焚く燃焼部

にあたる。叡尊忍性によって再興された額安寺の所用瓦を焼くためにつくら

れたものである。

1995年 7月 大和郡山市教育委員会

 昭和3年4月用水池掘削作業中に、 地下1mの所から

3基のロストル式平窯が出土。 鎌倉時代 叡尊や忍性によって、 額安寺再興
のための瓦を焼いた窯跡群と考えられる。



融通寺
   
   
   
   



来迎寺
   
   
   


光明寺
   




素戔嗚神社