太安万侶墓地図
太安万侶神坐像 | 太安万侶墓誌(重文) |
室町前期の木像 多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこ) |
銅板に、居住地や位階勲等、 没年など41文字が刻まれている。 |
太安万侶 | おおのやすまろ | 多神社 古事記 太安万侶墓 賣太神社 元正天皇 書紀の編纂 古事記の成立 謎が多い光仁天皇陵 |
墓誌とは、葬られる者の名前や生前の地位、経歴などを金属板、?(せん)、 骨蔵器なと、に記したものである。日本古代の墓誌は、後漢に始まるとされる 中国の墓誌に淵源(えんげん)をもつものだが、その形態や内容が、同時代 のものと比べて大きく異なることはよく知られている。そのことは、持統天皇、 文武天皇、元明天皇の代へと薄葬の風が強まりをみせることと無関係ではなく、 日本における内的な要因が、より簡素で独自の墓誌文化を生んだ。 日本の墓誌は、飛鳥時代の終わりごろに端を発し、奈良時代に一定の上位 階層の人々の間で採用される。太安萬侶墓誌のような金属板の墓誌の主は、 基本的に四位以下の官人で占められる。つまり、それら墓誌は、天皇を頂点と する律令期の墓制の中に位置づけられたものであった。一方の天皇を含む最 上位層の人々は墓碑を立てていたと考えられる。 |
太安複侶慕誌は、同年代の墓誌の厚みが5mm程度あるのと比べて著しく薄く、 表面からの鐫刻(せんこく)によつて裏面が盛り上がっている。これほど薄レ例とし ては、神護景雲二年(768)と考えられる銘のある宇治宿祢墓誌がある。768年は 木炭の較正年代に近く、墓誌の薄さは年代を反映している可能性がある。 そもそも墓誌は死亡後に製作される。船王後慕誌、小野毛人慕誌、威奈大村骨 蔵器のように、墓誌には、没年とともに埋葬した日付や墓誌製作の日付を記すも のがあるから、この場合、墓誌は遺骨の埋葬後こ製作され、墓に追納されたもの と考えられる。威奈大村の場合は、越後国で死没して、7ヵ月後におそらく火葬骨 が大和国に送られて帰葬されている。遺骨を一旦埋葬し、骨蔵器を製作して改め て葬儀を行ったのだろう。骨蔵器の埋蹄時期は分からないが、帰葬された時期を 大きく下るものではないだろう。一方で、慕誌製作が死亡年を大きく下るものに 船王後墓誌と小野毛人墓誌がある。 船王後は辛丑年(641)に没したが、埋葬は戊辰年 (668)であり、夫人と合葬するた めの改葬とみられている。墓誌にみえる「官位」は天武末年以降の表記と考えられ るので、墓誌は改葬から15年以上ものちに製作されて追納されたと考えられる。 小野毛人墓誌には丁丑年(677)12月上旬に埋葬したとあるが、墓誌にみえる 「朝臣」は天武13年 (684)に臣からの改姓であり、「大錦上Jも 『続日本紀』和銅7年 (714)には「小錦中毛人」とあるので、墓誌は持統朝以降の迫納とみられている。 毛人の墓は、内法で長さ約260 cmX幅約104 cmの箱式石棺であり、骨化する前の 土葬の規模・構造である。墓誌の追納はこの石室に行われており、墓誌追納のた めに改葬はしていない。 このように、埋葬から15年以上も経ってから葛誌の製作が行われる例はある が、いずれも飛鳥時代 に没した人物であり、8世紀初頭頃の墓誌の流行にともな って製作、追納されたものであろう。改葬までするのは、船王後のように合葬する ためといった墓誌追納とは別の理由があった場合である。したがって、太安萬侶 墓が死没後まもなく築造され、墓誌追納のために改葬されたとは考えにくい。また、 太安萬侶の没年は墓誌の流行期といえるものであり、その意味では、墓誌製作 が没年を大幅に遅れることは考えにくいので、20年以上も経ってから墓誌を追納 した可能性は低い。ただ、上述したように、墓誌の薄さは新しい要素と言えなくも ない。 大安萬侶墓誌の追納の可能性については、発見時に一部が掘り返されている ため断定はできないが、発掘調査で追納を示すような掘り直しの痕跡は確認され ていない。当初の埋葬状態から改変がなかったとするならば、造墓は太安萬侶 の没後20年以上のちのことであり、墓誌は造墓時に納められたことになる。異常 に薄い墓誌は、没後20年以上もたった造墓にあわせて製作されたのだろうか? 2023−10−29 令和5年度秋季特別展研究講座 太安万呂出土品の再検討 奈良県立橿原考古学研究所 重見泰 |
日本古代の墓誌(現存するもの) |
小治田安万呂 | 文祢麻呂 |
太安万侶墓誌 厚さ1mmの薄い銅板を短冊形に切り、表側に鏨彫り(たがねぼ)りで銘文がが打ち刻まれている。 「左京四條四位坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥 年七月六日卒之 養老七年十二月十五乙巳」 銘文は2行のみ。裏面に銘文はなく、表面から打ち込んだ文字が浮き出ている。 墓誌とは、故人の姓名や位階、業績、没年を石や金属に刻んで墓に納めたもの。日本では7世紀末 から8世紀の墓誌が16点現存する。 もはや古墳を造る時代ではなく中級貴族といえども墓は簡素である。それでも古墳時代の木棺と 同じコウヤマキ材が使われ、骨を納めた木柩の中には貴重な天然真珠が4点あった。火を受けて おらず、火葬後に添えたらしい。(墓誌、真珠とも重文)
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1979年1月、奈良市東郊の茶畑から一基の火葬墓が見つかり、埋納されていた銅板の墓誌から、安万侶の墓であることが分かった。 墓からは、安万侶本人とみられる熟年男性の火葬骨も見つかっている。 墓誌の記載から、太安万侶は平城京の左京四条四坊(現在のJR奈良駅の西側)に住んでいた。 太氏は多氏とも記され、本拠地は今の田原本町多付近。 |
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太安万侶 古事記の編者。奈良時代の文官で、父は壬申の乱で功績があった多品治(おおのほんち)とされる。1979年1月、奈良市此瀬町 の茶畑で墓が見つかり、埋葬されていた墓誌から平城京左京四条四坊に住み、官位は従四位下勲五等、命日は7月6日と分かった。 出土した遺骨は近くの寺に供養されたが、今年(2012年)7月、かって安万侶の墓と伝承があった多神社近くの塚に分骨を納める 計画が進む。 |
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古代氏族である太(多)氏の本拠地は、田原本多周辺と考えられている。この地には現在も、多神社が所在する。 多氏の先祖とされる神八井耳命(かむやゐみみのみこと)、皇位を弟の綏靖天皇に譲って祭りを司ったことが「古事記」 に記される。 飛鳥と斑鳩を結ぶ太子道(筋違道)が通る。 藤原京の時代は、役人は都の中に国から宅地が支給されるが、従来の住まいも所有しており、ここから通勤する場合もあった。 多の地から藤原京まで約4km、平城京の南端から平城京までも4kmであるから、役人としても安万呂も通えない距離ではなかった。 都が平城京に移り、「古事記」を完成させた安万呂は、氏長となり養老7年(723)に従四位下・民部卿として亡くなる。 出土した墓誌からは、平城京左京四条四坊に住まいしたことが知れる。 |
太安万侶墓 |
太安麻侶像 橿考研 |
古事記 安田靫彦(やすだゆきひこ・1884-1978)昭和21年(1946) ている様子を、端正な筆致で描いている。燭台の脇の 机に置かれている硯は風字硯(「風」の漢字に似た形 の陶硯。奈良時代後半によく使われていた)だろうか。 安田靫彦は、明治後期から 昭和にかけて活躍した日本画家。歴史的な題材を多く とり上げ、『古事記』に登場する神や人物も描いた。 |