衾田陵(西殿塚古墳)地図
西殿塚古墳・東殿塚古墳は大和古墳群のなかでも最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれている。 これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳などの前方後円墳が連なるように立地し、 大和古墳群中山支群と呼ばれている。 |
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竜王山の麗、萱生町から中山町にかけて所在する全長230m、後円部径145m、前方部幅130m墳丘は東側で3段、 西側で4段の段築により形成されており、後円部および前方部の墳頂に方形壇が存在する巨大前方後円墳。 宮内庁が手白香皇女衾田陵(たしらか)としている墓。 手白香皇女を埋葬した陵墓は、6世紀前半に築造されたはずで、西殿塚古墳の隣接地を市教育委員会が調査したところ 3世紀末から4世紀初め頃の埴輪が出土し時代が合わない。西殿塚古墳の築造年代は考古学的に手白香皇女の墓とは 異なることが確認された。 古墳が築かれた場所は、東から西へと下る山の斜面となっている。そのために後円部の東側部分は3段なのに、西側は4段ある。 平らな場所り造成にかかる土木作業量が少なくて済み、西側に回れば立派に見えるようになっている。 東側には、東殿塚古墳がある。二つとも並行して築かれており、関係が濃いと考えられる。
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5世紀前半に即位した第26代継体天皇の皇后として、大和王権・大和朝廷の危機を救った。 日本書紀や古事記に登場する手白香皇女は、5世紀後半から6世紀前半にかけて存在した女性。第24代仁賢天皇と大和の有力豪族ワニ氏の系譜をもつ春日大娘皇后との間に生まれた娘で、倭の5王の一人、雄略天皇の孫娘でもある。 夫である継体天皇は近江地域に血筋を持つ人物で、王位継承には王朝の血統者である手白香皇女との婚姻関係に注目する研究者が多い。 27代安閑天皇、28代宣化天皇は継体天皇が天皇になる前、妻としていた尾張目子媛(めのこひめ) とのあいだに生まれていた子であるが、手白香皇女の子ではない。29代欽明天皇は継体天皇との間にできた子になる。 |
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この付近には、奈良盆地でも有数の古墳密集地帯で「萱生の千塚」と呼ばれている。西山・大塚・東殿塚等の前方後円墳、 下池山・波多子塚等の前方後方墳、その他にも円墳が沢山ある。 |
宮内庁は西殿塚古墳を6世紀前半の継体天皇の皇后、手白香皇女の墓として管理しているが、考古学者の間では、それより200年以上前に築かれたヤマト王権の大王墓とする説が有力。 追加⇒⇒⇒ |
邪馬台国の女王・卑弥呼の後継者、台与(とよ)の墓との説があり、宮内庁が陵墓として管理する西殿塚古墳で前方部頂上にある方形墳が石積みである可能性が高いことが明らかになった。同庁が3月に発行した「書陵部紀要」で報告した。 3〜5世紀ごろの古墳では竪穴式石室の上に盛り土の壇が造られ、石積みの壇は珍しい。卑弥呼の墓説もある箸墓古墳の後円部にも石積の壇はあり、初期の大王墓の構造を考える上で貴重な手がかりとなる。 西殿塚には、前方部と後円部にそれぞれ一辺約22m、高さ約2.2mと、一辺約35m、高さ約2.6mの方形壇がある。 2012年8月に前方部に盗掘事件があったのを機に同庁書陵部が調べたところ、深さ最大約40cmの盗掘穴は底まで、こぶし大から人の頭ほどの石が積まれていた。 2014−4−10 朝日新聞より |