百済大寺地図

 百済大寺は舒明天皇11年(639)天皇が発願し、日本で最初に天皇が建立した寺。
 百済大寺は、天武天皇2年(673)移築されて髙市大寺と称するようになり、さらに、藤原京のころは、移築されて
大官大寺となる。
 九重塔があった寺は、百済大寺・高市大寺大官大寺の三か所。
 九重塔は高さ100mほどあったとみられ、現地の標高60m、香具山が152mであり、香具山とほぼ同等の高さ
であったとみられる。
 
図は、2014-4-11 朝日新聞より
小山田古墳  百済大寺があった吉備池  八角形の大王墓 なぜ 大官大寺 
飛鳥・藤原の寺 僧寺と尼寺 小山廃寺 百済 
吉備池 額安寺  2つの大官大寺    
 
 地図
天皇が建立した寺、大官(国営)寺の推移 
 時代  舒明天皇    天武天皇   文武天皇    元明天皇
建立場所 吉備池 地図     高市郡    飛鳥 地図   平城 地図
 名称 百済大寺
(639)
舒明天皇が
発願
 ⇒  高市大寺
(673)改称
  ↓
大官大寺
(677)改称
 ⇒   大官大寺
(697~707)
伽藍完成
 ⇒   大安寺
(710)平城遷都
に伴い大安寺とし
て移転
 塔  九重塔   九重塔    九重塔    七重塔
 備考1   移築  名称変更
 場所不明


移築

奈良の都に
移った時に
焼けた

   
 備考2
2つの大官大寺⇒
    場所は木之
本廃寺か
711年、完成を
見ず焼失した。
文武天皇の
大官大寺が
焼失したの
で天武天皇
の大官大寺
を残し大安
寺につながる。
   
由緒沿革  
 大官大寺
(大安寺伽藍縁起)
舒明天皇11年2月 百済川の側(ほとり)に、子部(こべ)の杜を切り排(ひら)きて、寺家(じけ)を院し、九重塔を建て、三百戸の封を入れ賜い、号して
百済寺と曰う。此の時、社の神怨みて火を失し、九重塔並びに金堂の石の鴟尾(しび)を焼き破る。
日本書紀 舒明天皇11年7月詔して日はく、今年、大宮及び大寺を造作(つく)らしむとのたまふ。則(すなは)ち百済川の側を以て都處とす。是を以て、西の民
(おおみたから)は宮を造り、東の民は寺を作る。
舒明紀11年12月 小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂を以て、高市大寺造る司に拝す。 
大官大寺
(大安寺伽藍縁起)
天武6年 改高市大寺、号大官大寺 
扶桑略記 天武天皇12年 移百済大寺。建高市郡夜倍村。 改名日大官大寺。 
 大官大寺
(大安寺伽藍縁起)
文武朝 天皇九重塔立、金堂作建、並丈六像奉造之。 
大官大寺
(大安寺伽藍縁起) 
和同3年冬 移大官寺于平城
続日本書紀  元明天皇和同3年3月 始めて都平城(なら)に遷す。 
 扶桑略紀 元明天皇和同4年 大官等寺幷藤原宮焼亡。 

 百済大寺は、『書紀』によれば造営後まもなく九重塔が建ち、舒明の死後、皇極朝の元年には、近江

と越の役夫を徴して造営をすすめた。百済大寺はこれまでの飛鳥寺四天王寺などとなり、天皇の発

願による最初の大寺である。この寺はのちに、飛鳥岡本宮の南にいとなまれた飛鳥浄御原宮の宮域と
香具山の中間の、いまの明日香村小山の地にうつされ、高市大寺とい、ついで大官大寺とも称した。

百済大寺=大官大寺は、蘇我氏がほろびてのちに、飛鳥寺をとえた寺格をもつ、飛鳥の中心的な寺院と

なっていく。



高市大寺
大官大寺  2つの大官大寺  百済大寺 
大官大寺  大安寺  小山廃寺  
年表677年    



木之本廃寺
大官大寺  2つの大官大寺