川原寺跡・弘福寺(ぐふく)地図
川原寺は弘福寺ともよばれる。斉明天皇の川原宮(655・656)のあとに営まれた寺。 天武天皇の時、大官大寺・飛鳥寺・(本)薬師寺と並ぶ飛鳥四大寺と呼ばれる官寺 の一つとなった。 |
川原寺復元模型 飛鳥資料館より |
「現在のこの位置(本堂)の周辺に瑪瑙(めのう=大理石)の礎石が残っていることなどから、 大正十年に史蹟に指定されています。 方二町をこえる地に中金堂(現本堂)を中心として、南東に塔、西南に西金堂があり、中門回廊、 さらに諸堂、三僧房などが配置され、白鳳時代の官の大寺としての盛観をしのばせてくれます。」 続き⇒⇒⇒
|
川原寺(弘福寺)は斉明天皇の川原宮(655)のあとに営まれた寺である。 現在のこの位置(本堂)の周辺に有名な瑪瑙(めのう)の礎石がのこっていることなどから、 大正10年に史跡に指定されている。 方2町をこえるこの地に中金堂(現本堂)を中心としてその東南に塔、西側に西金堂があり 中門回廊さらに北に講堂、三面僧房などが整然と配置されていた。 |
「九世紀になって当寺は、真言宗とよむすばれ、弘法大師が朝廷よりたまわり、今日まで「弘法大師ゆかりの寺」 としてつづいています。 創建の伽藍は、建久二年(1191)に罹災して、以後は中央部の諸堂が復興しましたが、これも十六世紀ごろに 再び罹災して、今は当建物が残るのみであります。」 川原寺は悲運の寺でもあった。三度の火災にあい、そのたびに再建がなされた。最初の焼亡は平安時代前半で、 金堂や塔などが炎禍にみまわれている。二度目は平安時代の終わりころで、寺院が壊滅するほどの火災であった。 最後の火災は室町時代の後半、落雷によるものであった。焼亡のたびに規模は縮小されていった。 |
|
作者不明 巻16-3849 |
方形三尊塼仏 | 塑像東部 |
飛鳥資料館より |
弘福寺 | 弘福寺 | 弘福寺 |
弘法大師ゆかりの寺 真言宗豊山派 佛陀山弘福寺。 川原寺金堂跡に弘福寺が建つ。 |
木造持国天(重文)・多聞天(重文) が安置されている。 |
川原寺跡から道路を隔てて南方に橘寺を望む。 |