広隆寺地図

弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)
木造(松)飛鳥時代
 国宝第一号に指定された飛鳥時代を代表する
仏像といわれ、赤松の一本造りである。
おだやかな顔つきと、しなやかな指先、
思索にふける半跏思惟のポーズに特色がある。
 一切衆生をいかにして救おうかと考えている
姿を表している。
(写真)
 もう一体は「泣き弥勒」または「宝髻(ほうけい)
の弥勒」
とも呼ばれる百済からの貢献仏がある。
 二体とも 霊宝殿に安置されている。
半迦思惟像比較
 
 秦氏 
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 講堂(赤堂・重文)
   
 桜門(仁王門)  上宮王院太子殿(本堂)
上宮王院太子殿
 享保15年(1730)に再建された入母屋造りの堂。本尊は聖徳太子像。
 毎年11月22日の聖徳太子御火焚祭に特別公開。
講堂
 永万元年(1165)に再建された。京洛最古の建物で俗に赤堂という。中央に西方極楽浄土で説法されている印を結ぶ阿弥陀如来坐像(国宝)
、地蔵菩薩坐像(重文)、虚空蔵菩薩坐像(重文)を祀る。 
真言宗御室派
桂宮院本堂(国宝)
 太秦寺(うずまさ)・太秦太子堂・葛野秦寺(かどのはた)または秦公寺(はたきみ)などと呼ばれる。 

広隆寺沿革

 広隆寺は推古天皇十一年(六〇三)に建立された山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本七大寺の1つである。この寺の名称は、古くは蜂岡寺、
秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺(うずまさでら)などと言われたが、今日では一般に広隆寺と呼ばれている。

 広隆寺の成立に就いて、日本書紀によると秦河勝が聖徳太子から仏像を賜りそれを御本尊として建立したとあり、その御本尊が現存する弥勒菩薩
であることが廣隆寺資財交替実録帳を見ると明らかである。

 秦氏族が大勢で日本に渡来したのは日本書紀によると第十五代応神天皇十六年で、主は養蚕機織の業であり、その他に大陸や半島の先進文化を
我が国に輸入することにも努め農耕、醸酒等、当時の地方産業発達に貢献していた。

 我が国に大陸文化を移し産業と文化の発達の源流・経済の中心ともなった太秦の、この広隆寺は、衆生済度の道の探求、仏法への絶対的な帰依、
そして。和を似って貴しと為す、平和な世界をめざされた慈悲の権化である聖徳太子の、理想の実現に尽
力した秦氏の功業を伝える最も重要な遺跡で
あり、信仰と芸術の美しい調和と民族の貴い融和協調とを如実に語る日本文化の
一大宝庫である。

 広隆寺は弘仁九年(八一八)に火災に遭ったが、秦氏出身で弘法大師の弟子である道昌僧都によって再興、更に久安六年(一 一五〇)にも炎上し,復興
された。このように、度々の災禍にも拘わらず、多くの仏像が現在も護持されている事を思うと、これら
の仏像がいかに強い信仰の対象であるかがうかが
われる。

 
 霊験薬師仏檀像

廣隆寺来由記

山城国乙訓郡に乙訓社(E日明神)があった.。

その前に一本の神木があり、時々光を放って

いた。薪を採りに入った人がその神木でたち

まちのうちに仏像を造り、,南無薬師仏、と唱え

大社に安置し、たちどころに消え失せた

この像は向日明神が権りに薪採りの人と化っ

て造立した霊像である。

延暦十六年(七九七)五月五日瑠璃光明を放って

人々を驚かし、勅により願徳寺に移した。

貞観六年(八六四)清和天皇が病にかかられた時

道昌僧部が勅許をえて、廣隆寺に移し七箇日

の修法を行ったところ霊験現われ天皇の病は

癒えた。又、大井川(桂川)が大氾濫をした時も

この像に祈願したところ事なきを得た。

長和三年(1014)五月五日,延暦十六年と同じ

日時にこの像が光明を放ち、誠に霊験数多く

この日を拝謁日と定められた

平安時代の神仏習合の型をとっためづらしい

天部形の薬師如来である。

本堂
 延暦13年(794)の平安遷都により多くの人々が京都に移り住み、
聖徳太子とその偉業に尽力した秦氏の寺として広隆寺は尊崇をえており、災禍にあったが、
時をおかずに再建された。
 平安遷都されたのも、秦氏の影響が可なりあったといわれている。
 豪族秦氏の長であった秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立された。
 法隆寺四天王寺などとともに聖徳太子建立七大寺の一つに数えられている。
 秦氏は帰化人のうちで最も繁栄した氏族で、6世紀にはすでにこの地に約7000戸
の人々が住んでいたといわれる。
広隆寺はもと葛野郡九条河原にあったが平安奠都(てん)のときに現在の所に移った。
しかし、弘仁9年(817)に全焼し、その後藤原信頼が再建に着手し永承元年(1165)に再興した。
今の講堂はそのときできた旧金堂で、俗に赤堂と呼ばれる。
このほか建長3年(1251)に建てた桂宮院本堂(けいぐう・国宝)がある。
  
大聖勝軍寺   法観寺   
   
   
桂宮院本堂(国宝・別名八角円堂)
 聖徳太子が楓の別宮を起こされたところと伝えられ、現在は広隆寺の奥の院と称される。
現在の建物は建長3年(1251)に中観上人澄禅(ちょうぜん)により再建された。
法隆寺夢殿⇒
法隆寺西円堂 
広隆寺の仏像

弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒=国宝)

 アカマツ材像高123.3cm飛鳥時代

弥勒菩薩は、56億7000万年後にこの世に現

れ、人々を救うという未来仏。

この像は、広隆寺創建時の本尊と考えられ

「宝冠弥勒」と通称される。

下ろした左足の上に右足を組んで坐し、右手を

軽く頬にあてる半跏思惟の姿

兜率天(将来、仏になる菩薩の住む所)で修行

している弥勒菩薩が、末法の世の衆生をいかに

救済しようかと思索にふける姿。

現在は木肌の木目が美しいが、もとは金色に輝く

漆箔(しっぱく)像であったと思われ、一部に金箔
が残る。

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 韓国の国立中央博物館にある金銅の半跏像と良く
似ているといわれる。

 この像は、七世紀頃百済で作みれ

日本にもたうされたものと伝っていたが、

像の顔が柔和で日本的であるとして、 我が国で作

られたとする説ある。
 鼻筋、目元、頬は、明治期に平安未期の様式を継い
だ仏師にる補修が行なれれた。和様になった顔立ち

は、修復によるものと考えられる。

弥勒菩薩半跏思惟像(宝髻弥勒・泣き弥勒=国宝)

 クスノキの一木造像高90.5cm 飛鳥〜白鳳時代

眼の切れが長く伏目で、口元を引き締めているか

ら、べそをかいているように見え「泣き弥勒」、ま

た、高く結った髪型から宝髻弥勒と呼ばれる。

両肩からたれる天衣(てんね)や右足首にかかる裾
に獣皮を用いた珍しい例。手足、衣などの彫刻が優
れ、安定感のある美しい姿に表わされている。

 

不空羂索観音立像(国宝)

 上記宝冠弥勒があまりにも有名なため隣に安置
されている一回り小ぶりなこの像はあまり脚光を浴
びていない。木造像高311.0cm
 奈良〜平安時代の作

 羂索(綱)で鳥獣をとる如く、衆生をもら

さず救うとされる。 3mを越す長身の巨像だ

が、すらりと均整がとれたしなやかな体躯で

容貌も端麗で若々しい。八臂(はっぴ)をもち

通例の不空羂索観音像と違って、額の縦の一

眼がない。衣文の彫りには乾漆像のような

柔軟で流麗な表現が見られ、天平の乾漆彫刻

の流れを受けた、8世紀末から9世紀初頭の

造立と考えられる。彩色の残る火焔光の板光

背も平安時代の作として貴重。新霊宝殿が開

館するまでは講堂外陣の東北隅にあった。 

千手観音立像(国宝)

 木造像高264.0cm 平安時代9世紀の作

11面42臂の巨大像。当初は金堂の安置

仏であったといわれる。

漆箔像であり、頭部から足までと、合掌する

二臂と鉄鉢を持つ二臂は一木造りで、他の部

分はつなぎ合わせて作ってある。脇手(わきしゅ)が

通例より大きく全体的に重厚な作風。衣文の

襞は規則正しく同心円的の波紋を作っている。

千手観音の巨像としては、唐招提寺の国宝の

乾漆像と並ぶ傑作とされる。もと講堂に安置

され、現在は霊宝殿に安置。

阿弥陀如来坐像(国宝)

 木造像高261.5cm 平安時代作

講堂の本尊で、『広隆寺資材交替実録帳』

にある永原御息所(ながはらのみやどころ)の発願の像

とされる。永原は淳和上皇の女御で、本尊

は840年に没した上皇の追善供養のための

造立と考えられる。丈六の像で、重厚な平

安初期の傑作。両手の転法輪印は極楽浄土

での説法姿を表わしている。光背は二重円

相、台座は宣字裳懸座せんじもかげざ)で、当初の

部分を残す。阿弥陀の脇侍は観音、勢至像

だが、広隆寺では地蔵菩薩と虚空蔵菩薩の坐

像で珍しい。両脇侍の像は9世紀後半、道昌作と伝わる。 

十二神将

 木造像高123.0cm 安底羅大将像(国宝) 平安時代作

十二神将は定朝の弟子・長勢の作と伝わる。

薬師の守護神であるから12躯とも顔は忿怒、

身に甲冑をつけ、手には剣、鉾、弓、矢等の

武器を持ち、岩の上に立つ。片目を細めて矢

を献じる安底羅(あんてら)大将像は、長勢が定朝

から受け継いだ様式が見事に結実した逸品。

藤原時代の作で、わが国最古の木彫の神将像である。