往馬大社地図
竹林寺地図
行基墓地図
忍性墓地図
竹林寺古墳地図
円福寺地図

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往馬大社
   
 
 往馬大社火祭りポスターより
奈良県指定無形民俗文化財
10月9日(日)本祭り
 
   

現在、本殿のご祭神は

伊古麻都比古神(産土大神・うぶすなのおおかみ)

伊古麻都比賣神(産土大神)

気長足比賣尊 (神功皇后)

足仲津比古尊 (仲哀天皇)

誉田別尊 (応神天皇)

葛城高額姫命(神功皇后の母君)

気長宿称王命(神功皇后の父君)

 以上七柱で、この他境内に十三社の摂末社と、境内地

に別院春日社四社と高良社二社が犯られています

往馬大社 (往馬坐伊古麻都比古神社)御由緒

 往馬大社の歴史はたいへん古く、創立年代は定かで

はありませんが、生駒谷十七郷の氏神としてこの地に

鎮座し、奈良県内では大神神社石上神宮と同様に神

奈備(生駒山)を御神体として祀られた日本有数の古

社であります。

 また、神社の境内を覆う鎮守の杜は奈良県の天然記

念物に指定されており、太古から変わらぬ自然の森を

今に守り伝えています。神社で最も古い記述は『総国

風土記』の雄略天皇三年(四五八年)で、この年を御

鎮座と致しますと、去る平成二十一年に一千五百五十

年を迎えました。

 また、正倉院文書にも記載が見られ、奈良時代から

すでに朝廷との関わりがありました。平安時代の
延喜式』(九二七年)では、往馬坐伊古麻都比古神社二

座が官弊大に列せられ、その内一座は祈雨の弊も賜っ

ていました。

 この時代、本殿は産土神の二座でありましたが、鎌

倉時代に武家の守護神である八幡信仰が興隆し、当社

でも五座の八幡神を合せ祀り現在の七座となり、当時

は生馬八幡宮や生馬大明神と称していました。

 正しくは、往馬坐伊古麻都比古神社といい、生駒神社とも呼ばれて

います。古くは伊古麻都比古・伊古麻都比責の二座でした。しかし、

後の世で八幡信仰が盛んになり、付近に勧請された八幡神を合祀す

るようになったとされています。生駒谷十七郷の氏神として崇めら

れ、秋の「火祭り」では、上座と下座に別れた氏子の競争によって神

事が行われ、「勝負祭り」とも呼ばれています。  

   
  往馬大社 椎の杜改修整備記念碑 

県指定 天然記念物 往馬大社の 社そ う 平成十年三月二十日指定

 この社そうはツブラジイ(コジイ)を優占種とする照葉樹林

で、ツブラジイの巨樹を中心としてアラカシ、クロガネモチ、

カナメモチ、リンボク、サカキ、クスノキ、ユズリハ、スギ等

の大木が生育し、林床にはヤブミョウガやベニシダをはじめ

ツブラジイの実生苗を交えて約三haの境内に広がっている。

 また、指定地北端には、ツブラジイの壮齢木の中に若齢木が

密生するかたちで育成しているが、林内には枯死したアカマツ

が見られ、本境内のほとんどを占めるツブラジイ林に次第に遷

移するものと考えられる。

 周辺は宅地開発が進み、生駒山麓地帯の極相を示す森林が極

めて少ないが、ここでは高さ約二0mに達する森林がよく保存

されていて、この地域を代表する極相林として、密生する若齢

林の林分も含めて学術的価値が高い。

 
 上溝桜(うわみずさくら・波波迦

 この桜の木は、天皇陛下の大嘗祭
関わる斎田点定の儀に使用された御神木
です。

 平成や令和の大嘗祭にも当社よりこの

上溝桜を献上致しました。四月中句から

下句頃に白い房状の小さな花を咲かせま
す。

   
   
  祓戸社   十一面観音真言

生駒曼荼羅

 鎌倉時代の『生駒曼荼羅』(重要文化財)と室町

時代の『生駒曼荼羅』(県指定文化財一四五六年)

の二軸は八幡神を合せ祀った当時の隆盛を物語って

います。境内にはこの曼荼羅に描かれた神功皇后の

本地仏である十一面観音像を安置する観音堂があり

ます。仏像は鎌倉末期か室町初期頃のもので、社伝

では「雲慶作」と伝えられています。また、現在の

観音堂付近に古くは経室という建物が存在し、そこ

には『大般若経六百巻』が納められ、神宮寺と伝わ

れる十一の寺が三年ずつ輪番で経室を管理していま

した。さらに、現在英霊殿が配られている場所には

幕末まで八角の宝壇が設けられ、孝謙天皇(在位七

四九年〜七五八年)の皇太子道祖王の黄金の位牌を

埋めたところと伝えられています。

 
   






生馬山竹林寺

 
   
 奈良時代に行基菩薩が生馬仙房をかまえた故地

とみられる行基。は文殊菩薩の化身と仰がれ、
鎌倉時代に舎利瓶が出土し、 その後円照、良遍、
忍性、凝然ら高僧が集い堂塔が整った。 寺名は、
文殊の霊場中国の五台山大聖竹林寺にちなむ。

 生駒市教育委員会 

 
 竹林寺には行基の墓がある。 
本堂は1998年に落慶した。
 本尊は極彩色の文殊菩薩。 
 行基は文殊の生まれ変わりと称されたという。
 加倉時代の1235年、行基の墓が発掘され、彼の事績を記した文章が刻まれた
銅製の筒や、骨を納めた容器が出土した。
それ以後、竹林寺には行基の事績を慕って集まった僧らの修行の場となった。
その一人がやはり民衆の救済事業を進めた忍性(にんしょう・1217〜1303)である。
 3ヵ所に分骨された彼の墓の一つは竹林寺の境内に建てられている。
 明治維新後、廃仏毀釈によって竹林寺は荒廃した。安置されていた本尊や鎌倉時代
の行基菩薩坐像は本山の唐招提寺に移された。
 1921年に行基の墓が国の史跡となった。1998年に本堂と庫裏の建設が実現した。
重文になっている行基菩薩坐像の精巧な模造が作られ、本尊の隣に安置された。
 裏山には修験道ゆかりの役行者像や八大竜王像が並ぶ。 
 忍性社寺復興 忍性生誕地碑   上知令
 行基や忍性の基がある、竹林寺は、唐招提寺の末寺であったが、明治7年 (1874 )に
廃寺となる。廃寺前の明治6年の寺院調べによると、竹林寺の境内は28263坪あった。
竹林寺廃寺後、官有地となるも、行基の墓と思われる56坪を官有地のまま、唐招提寺が
飛地境内として管理することを明治33年 (1900)に許可されている。また、同35年に
竹林寺があったと推定できる、有里町の国有林4町3反6畝(約13000坪)あまりを払い下
げにより買い取っている。この唐招提寺が竹林寺の土地の一部分を買い取っていたこ
とが、平成9年(1997)の竹林寺復興を可能にした。 
  明治時代の上知令への社寺の対応



行基墓

 
 
   

 行基は、律令制のもとで重税に苦しんでい

た庶民に仏教を広め、大仏造立や架橋、 築

堤といった社会事業に努め、745年に朝廷

より日本最初の大僧生の位を贈られました。

畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏

法の教えを説き人々より篤く崇敬されまし

た。大仏造営中の749年に、菅原寺(喜光寺)
で82歳入滅し、遺命により生駒市の往生院で
火葬後、竹林寺に遺骨が奉納されました。  

   
 百くさに八十くさそえて
賜ひてし乳房のむくい
今日ぞ我がする 
   




忍性墓

 

忍性墓

 鎌倉時代の僧忍性(1217-1303)は、 文殊善薩と行基

を信働仰し、慈善救済事業に努めた。 関東に戒律

を広め鎌倉極楽寺に没した後、遺言により竹林寺、

極楽寺、大和郡山市の額安寺に分骨された。 墓塔

下から銅製骨蔵器など36点(重文)が出土した。

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  忍性 
般若寺  叡尊  伊勢神宮年表1186年 
文殊菩薩  忍性生誕地碑  額安寺 
額田部窯跡  忍性  夕日地蔵尊  
忍性社寺復興  忍性鎌倉   北山十八間戸 
額安寺   額安寺五輪塔  清凉寺の釈迦如来

   
   2022−1−15  産経新聞
 
   




竹林寺古墳

   

 前方後円境。 全長約45m (当初推定約60m)。

高さ8m。後円部分のみが残る。古墳時代前期。

主体部は礫床上に舟形粘土床を設け、 その上を
礫、板石などで覆っている。「長宜子孫」銘の内行花

文鏡、刀剣片、埴輪片などが出土している。


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円福寺

 龍華山の山号をもつ真言律宗の古刹です。寺伝では、天平勝宝年間(749 -

757)に行基によって創建されたと伝えられていますが、創建以来の寺歴は明

らかではありません。本堂は鎌倉時代の建築といわれ、重要文化財に指定され

ています。外観は、簡素で優雅な雰囲気を漂わせており、本堂内部には、平安

後期の作とされる、木造の十一面観音立像が安置されています。

 
 本堂(重文)
円福寺本堂 (重文)

 龍華山。奈良時代の僧行基の開基と伝えられる。

 本堂は桁行3間、梁間3間、入母屋造鎌倉時代に再建された。
 本堂前に南北に並ぶ宝篋印(ほうきょういん)塔2基(重文)のうち北塔
に永仁元年(1293)の銘がみられ両塔とも鎌倉前期の様式を示してい
る。

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 宝篋印(ほうきょういん)塔(重文)