周遊紀行文

はじめに

第一日目(5月14日) 伊丹空港 → 宮崎空港 → 道の駅「フェニックス」 →鵜戸神宮 → 吾平山陵 → 垂水港 → 鴨池港 → 鹿児島(泊)
第二日目(5月15日)

鹿児島 → 知覧武家屋敷・特攻平和会館 → 新田神社・可愛山陵 → 高屋山上陵 → 霧島神宮 → 霧島温泉(泊)      

第三日目(5月16日) 霧島温泉 → 狭野神社 → 陰陽石 → 壽福酒造 →通潤橋(下鶴橋・八勢橋・金内橋)→ 通潤山荘(泊)
第四日目(5月17日) 通潤山荘 → 高千穂神社 → 高千穂峡 → 天岩戸神社 → 美々津・立磐神社 → 都萬神社・西都原 → 宮崎(泊)
第五日目(5月18日)

宮崎 → 県庁 → 青島神社 → 宮崎神宮 → 江田神社 → 宮崎空港 → 伊丹空港

おわりに
付 記






はじめに

先に神武天皇陵から昭和天皇陵まで歴代天皇陵を参拝、上巻(河内・奈良編)、下巻(京都編)にわたって写真・解説・陵印を収載した冊子及びCD−Rを作成した。しかし、神武天皇以前の神代三陵は参拝していなかった。
 このたび1年前から計画していた神代三陵を参拝する機会を得た。また、この機会に近辺の神々の里や観光地めぐりも行うことにした。

行程:2007年(平成19年)5月14日(月)〜5月18日(金)

 

 神代三陵については、記紀によればニニギノミコトは筑紫日向可愛之山陵、ヒコホホデミノミコトは日向高屋山上陵、ウガヤフキアエズは日向吾平山上陵に葬ったといい、神代三陵と呼んでいる。
 延喜式(諸陵寮)には、「日向国に在り、陵戸無し」と記していて、三陵は文徳天皇陵の南原で祀られることになっていた。
 江戸時代には三陵の比定地が日向・大隈・薩摩の三国内に何ヵ所も知られるようになった。
 明治時代には維新政府は陵墓の比定を行った。中心的な役割を果たしたのが教部省であり、そのなかで鹿児島出身者が大きな勢力をもっていた。
 1874年(明治7年)7月10日に、可愛之山陵を川内市、高屋山上陵は溝辺町、吾平山上陵を吾平町とする「御裁可」があった。これによって神代三陵は全てが鹿児島県内に定められた。
 1883年(明治16年)鹿児島県から再分置された宮崎県側の動きを受けて、1895年(明治28年)11月には宮崎県の二ヵ所が伝説地(現在は陵墓参考地)、二ヵ所が陵墓参考地とされた。

     

  

5月14日の巻

 2007年(平成19年)5月14日(月)は朝から五月晴れで、すがすがしい天気であった。18日まで4泊5日の天皇のふるさとである九州高千穂地方近辺の周遊に出かけた。
 伊丹空港に午前6時40分に集合、7時10分発ANA501便の出発で、関空を左に見て、室戸岬を通過、宮崎空港に向った。
 快適な空の旅で宮崎空港には時間通り8時10分に着いた。 空港では、東国原英夫知事の等身大パネルが我々を迎えてくれた。 早速、空港前にあるトヨタレンタ・リースからレンタカーを借りて、国道220号線(日南フェニックスロード)を鵜戸神社に向って南下した。
 
 途中の青島へは、最終日に訪ねることにし通過した。

 
 青島をあとにしばらく進んだところに、フェニックスの樹に「堀切峠」の看板がかかっていた。ここから峠を下って見えてくる青い海は南国を実感させてくれた。

 
 近くの道の駅「フェニックス」で休憩、景観を楽しんだ。眼下に鬼の洗濯板が連なっているのが見え、打ち寄せる波も南国を思わせた。道を挟んで展望台があり、海岸に降りる遊歩道が作られている。そのまわりには色とりどりの南国の花が咲いている。興味を引いたのがブラジル産のジャカランダが、紫色の花と実をつけたのが見られたことである。

 ここをあとに、途中サボテンやフェニックスの群生を見ながら、カメラのビュウポイントで写真を撮り海岸線を南下した。海岸の岩に打ち寄せる波は眩しかった。

 国道220号線を離れ鵜戸神宮へ向った。道をカーブしたところで鵜戸神宮が遠望できた。「おちちあめ製飴工場」の小さな看板のかかった家の前を過ぎたところの鳥居の右横に駐車場があった。

 鳥居をくぐると参道の両側に一本づつ大きな木が横たわっていたが、これは飫肥杉のベンチである。

 左側には「剣法発祥地」(念流・陰流)の碑や売店、そして本参道の石段(八丁坂)が見られた。鵜戸神宮への参拝路として吹毛井の港から神宮の山門まで、長さ約800m(八丁)の上り下りの石段が続いている。上り438段、下り377段で815段あり、石は近くの海岸から運んだ礎石である。頂上の近くに観光バスなど大型の車の駐車場が作られている。石段は平安時代から江戸時代の参拝者の往還で中央部が擦り減って凹んでいる。

右側の海岸には「神犬石」(イヌイシ)が見えたが、これは八丁坂から本殿を守護するように見えることから呼ばれている。

 神門を入ると左側に社務所があり、少し行くと立派な楼門がある。楼門の前左右には由緒ある灯籠が立っている。これは鵜戸山石灯篭のうち紙開発石灯篭一対で、飫肥藩が産業開発の一政策として楮の栽培を行い、和紙(飫肥紙)の製造を計画し、大阪の油屋善兵衛の協力を得てこの事業に取り組んだ。この一対の石灯篭は飫肥紙開発を記念して、1832年(天保3年)8月開発者の名を刻んで奉献したものである。

 楼門を入った左側に末社の稲荷神社と吾平山上陵墓参考地に行く門があった。あとで参拝することにして、参道を進むと千鳥橋、神仏習合の時代には金剛界37尊の御名が書かれた37枚の板が配してあった神橋(玉橋・霊橋・鵜戸の反橋)が続き、本殿に至る急な石段になっている。これより先は古来より尊い御神域・霊場として深い信仰を集めていた。かつては橋の手前から履物を脱ぎ、裸足で参拝していたといわれている。洞窟の前は断崖になっていて、眼下に亀石枡形岩、御船岩、二枚岩などが見られた。海に向って石段を下りて行くと、左側には大きな洞窟の中に朱塗の神殿が見えた。洞窟いっぱいに造られている。八棟造の本殿は県指定有形文化財である。約300坪の鵜戸神宮は「鵜戸さん」と愛称され、日南海岸の風光明媚な所、日向灘に面して鎮座している。

 順路に従って左回りに行くと本殿の正面になり、内側に神鏡が見えた。

 鵜戸神宮は神武天皇の父・ウガヤフキアエズノミコトを主神に六神を祀っている。別名「六社大権現」とも言われている。

 鵜戸神宮の創建ははっきりしないが、第10代崇神天皇の頃と伝えられ、その後、782年(延暦元年)に天台宗の光喜坊快久が、勅命によって初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院も建立して、勅号を「鵜戸山大権現平山仁王護国寺」を賜った。また、宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本宮のほか、本堂には六観音を安置し、一時は「西の高野」といわれ、両部神道の一大道場として栄えたという。明治になって廃仏毀釈によって権現号、寺院が廃止され、鵜戸神社、さらに鵜戸神宮と改称されて現在に至っている。

 社殿は1968年(昭和43年)に本殿末社の修改築を経て、1997年(平成9年)11月に屋根の葺き替え、色の塗り替えを行っている。

 さらに進むと本殿左側には、「皇子神社(五瀬命)」、「願掛け絵馬」、「九柱神社(イザナギのミソギの時の神々)」があり、裏側には「撫でうさぎ(毎月卯の日が神縁の日でウサギに通じ開運飛翔につながる)」、「御霊石」があり、そして有名な「お乳岩」があった。お乳岩より清水が湧き出ている。観光客が乳岩を撫でていた。これは豊玉姫がウガヤフキアエズノミコトを残して海に帰る時、洞窟内に置いていった乳房といわれている。

 そして本殿の右側には、「産湯の跡」、「お乳水」そしてお守りなどの売店がある。清水と米粉を混ぜ合わせて固めたミルク味の飴(鵜戸名物おちちあめ)が売られている。

 洞窟より外へ出ると、手水舎のところに大きな「運」と書いてある石の玉が飾られている。そして「亀石」の矢印表示があった。断崖の下に亀石が見える。

 亀石は真中がくぼんでいて注連縄で囲まれている。1セット5個100円で売られている「運玉」という素焼きの粘土の玉を投げ、くぼみに入れると願いが叶うといわれている。男性は左手で、女性は右手で投げるようになっている。昔は小銭を投げ入れていたが、1954年(昭和29年)に粘土で作った「運玉」が作られ、以来地元の小学生が作る「運玉」を投げるようになったとのことである。くぼみに入った運玉は回収され、「幸の玉御守」と名付け売られている。

 ここから元来た参道を引き返し、吾平山上陵参考地へ行くことにした。楼門の手前の門の前には制札屋形があり、「ここより仰ぐ神域の最高地速日峰の頂に在り、ここより約350m自然林の中、青苔を踏んで登る」と書いてある。門を入ると正面に「神武天皇御降誕伝説地 鵜戸」の石柱が立っている。その右側に小さな鳥居が並んで稲荷社への石段があり、神社の右側に吾平山上陵参考地へ続く参道が続いている。鹿児島県吾平町にある吾平山上陵が本来の陵墓で、こちらにあるものは「参考地」になっている。しかし、どちらも宮内庁管轄の陵墓であり、どちらが本物かといわれると判断は難しい。なぜならば神話の中の神様の陵墓であるからである。参考地の陵墓へ向かう途中「鵜戸ヘゴ自生北限地帯」を示す案内板がある。「ヘゴ」は国指定天然記念物で、湿地の高い林の中を好む熱帯性のシダで、高さは4m以上にもなるという。

 石段は山道に切り石が並べられたもので、上に行くに従い苔むしていた。陵まで約350mとのことであったが、我々以外誰も参拝する人はいなかった。

 途中「吾平山上御陵」の大きな木製の立看板が立っている。

 御陵は円墳のようで、石柵と鉄扉で囲まれていた。右前には簡単な「鵜戸陵墓参考地」の表示板が立っていた。

 なお、この陵の右側には、この地に群生する「へご群生地」を示す道標が立っていた。

 ここをあとに、フェニックスロードを南下、最初の神代三陵の吾平山上陵に向った。

 途中、「すぎやま」という軽食堂で昼食を摂った。女主人は我々を歓迎してくれ、包装紙で作った「箸入れ」をプレゼントしてくれた。可愛いユニークな「箸入れ」であった。

 続いて、南下、志布志市を通過、国道220号線はここより西進、途中「蓬の郷」で休憩、県道73号線に入り吾平町に向って進んだ。

 大隈半島の最大の町・鹿屋市の東側に吾平町があり、県道554号線に入りそこから陵墓への参道がある。道筋には御陵の表示が所々にあり、それに従って進んだ。駐車場は広く、側に「宮内食堂」、「土産屋」があったが、開店休業の様子であった。左側には鹿児島県立大隈広域公園への道路が続いている。

 その駐車場の突き当りに、神武天皇の父であるウガヤフキアエズノミコトの御陵「吾平山上陵」がある。

参道は広く整備され、制札屋形も彫刻で字が彫ってあるかのようであった。その前に「行幸記念碑」の大きな石碑があった。これは昭和天皇の行幸記念碑で、昭和10年11月に行幸、昭和11年11月に建立したもので、その後、昭和13年10月15日に大隈地方を襲った台風水害により埋没し、碑の行方はわからなかったが、1990年(平成2年)3月河川整備作業中に川底より発見したものである。参拝者は我々だけであったが、帰る途中の管理人が我々をみて、あわてて帰るのをやめ引き返していった。参道は左にカーブし姶良川に架かる鵜戸橋を渡り、右側に進むと、左は山側、右は川側である。約100m先に陵墓連絡所があり、広場になっている。途中には伊勢神宮の五十鈴川のように、川に向って石段が作られ手を洗うようになっている。玉砂利を踏みしめて突き当たったところに参拝所があった。

陵墓は対岸の切り立った崖の下に見える洞窟である。「三国名勝図会」に、奥行き10間、横12間、高さ1丈余と載っている。

 高屋山上陵管理人の山本氏は「鵜戸山という山の一部で、他の御陵とは全く形式を異にする大きな岩窟の中に築かれている。山麓に流れる清流吾平川(姶良川)に面し大きな洞窟が神秘的に形造られている。山上には樹木が鬱蒼と生え茂り、参道は曲折する清流に沿い老大木が並立していて有数の美しい御陵といわれている。」と述べている。

川側は柵がきれいに並んでいる。広場の中央には、一本の大木があり、その先に2本の大木が立っている。その奥に川側に向って、石垣の囲いと鉄柵があり、その前に賽銭箱があった。どこの陵墓にも置いていない賽銭箱である。

鉄柵の内側には入れないが、もう一つの鉄柵の内側には人一人が渡れる橋が作られている。渡ったところは小さな広場になっている。その奥は洞窟になっていて石柵と鉄扉があり、内側に鳥居と燈籠が見えた。その奥にも鉄扉が見えた。「姶良名勝誌」には「窟内には大小御陵二ヵ所あり、そのうち大の塚はフキアエズの御陵、小の塚はタマヨリヒメの御陵」と記されている。御陵のあるところは鵜戸山といい、岩屋(窟)を鵜戸岩屋と称している。この陵の上は崖になっていて頂上付近には木々に囲まれた絶壁が見られた。

付近には皇太子お手植えの松なども植えてあった。

鵜戸神宮にある参考地とは雲泥の差があり、あまりにも立派な陵であった。

ウガヤフキアエズノミコト(古事記より抜粋)について

  ある日、大綿津見神の娘・豊玉毘売命が火遠理命(天津日高日子穂穂手見命、山幸彦)のもとにやって来て、「私は妊娠していて出産の時期になった。天つ神の御子は海原で産むべきではない。そのためここに来た。」と言った。

○ 早速、その海辺の渚に、鵜の羽根を葺草にして産屋を造った。ところが、その産屋が葺きあがらないうちに、豊玉毘売命の陣痛が激しくなり、産屋に入った。そしてもうすぐ生まれる時、豊玉毘売命は火遠理命に「すべて他国の人は産むときになれば、本国の姿となって産みます。お願いですから私の姿を見ないで下さい。」と言った。しかし、火遠理命は覗き見したところ、八尋もある大きな鮫の姿で這い回り身体をくねらせていた。それを見て驚いて逃げ出した。

     豊玉毘売命は覗き見されたことを知って、恥ずかしいと思い、そのまま御子を生んだまま残して、「私は何時までも、海の道を通って、行き来しようと思っていました。しかし私の姿を覗き見されたのは大変恥ずかしいことです」と言って、海坂(海のはての境)を閉じて海神の綿津見の国へ帰って行った。

     このようにして生まれた御子の名前は、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と名付けられた。

     豊玉毘売命の妹の玉依毘売命に御子を育ててもらったが、成長した天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命はこの叔母の玉依毘売命を妻にして、生んだ御子の名前は、五瀬命、稲氷命、御毛沼命、若御毛沼命(神倭伊波礼毘古命、神武天皇)といい、御毛沼命は「常世の国」に行き、稲氷命は母の国がある海原に入った。なお五瀬命と若御毛沼命は東征に向った。

ここをあとに元来た道を、吾平町の中央にある鵜戸神社に向った。

鵜戸神社の主祭神はウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメノミコトである。生んだ神武天皇など4人の兄弟も祀られている。創建は不詳である。

747年(天平19年)勅命により六所大権現と号した。権現の尊神は六体木像である。この権現は吾平山上陵奉拝所にあったといわれている。1043年(長久4年)建立、その後度々再興・改築を繰り返してきた。1768年(明和5年)藩主島津重豪が宝殿・拝殿を造立、その後災害で大破、修復なるまでの間、この場所にあった八幡神社へ仮に遷座したが、元へ帰社することなく今日に至り、1964年(昭和39年)旧本殿、舞殿を現在地に新築した。八幡神社境内は鵜戸神社境内となり、八幡神社は吾平町中福良の田中神社のところへ移った。

正面参道より参拝、数段の石段を上がる右側に、正安の五輪塔があった。これは1962年(昭和37年)牧山にあった薗入寺の阿弥陀堂脇からこの地に移されたもので、「正安元季(399年)歳次巳穀亥10月6日孝子等敬白」と刻まれているので「正安の五輪塔」と呼ばれ、鎌倉時代後期に立てられていて、大隈半島では最古であり、当地の豪族の墓と推定されている。

石段を上った左右には狛犬ではなく、石仏を祀った小さな祠が並んでいた。

 参拝後、県道73号線、県道68号線、国道220号線を垂水港フェリーターミナルに向った。ターミナルでは少し待たされたが、乗客は地元の人が多かった。フェリーは大隈交通ネットワークのフェリーである。桜島を右に見ながら、約40分間で鹿児島鴨池港に着いた。カーナビが旧式なのか、たびたび地図を見ながら確認を取りながらここまで辿り着いた。しかし鴨池港より宿の位置を調べると、陸地にいるにも関わらず現在地は海の中である。地図を頼りに今日の宿である「KKR鹿児島敬天閣」(鹿児島市城山町5−24、TEL099−225―2505、シングル2食付・8,500円)に向った。

 南国鹿児島で、夕食はいろいろ多く美味の料理を食し、今日一日目の旅を終えた。

 第一日目の走行キロ数は178kmである。

 

5月15日の巻

 今日も五月晴れの暖かい朝を迎えた。朝早く近くの照国神社、鶴丸城跡などを散歩した。

朝食を早くすませ、国道225号線、県道23号線を知覧武家屋敷群に向った。

 知覧は「薩摩の小京都」と呼ばれている。武家屋敷のある知覧町麓地区は、「知覧武家屋敷群」といわれ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。薩摩藩政時代に外城として栄え、約250年前に、第18代知覧領主島津久峯により、京都から庭師を連れてきて造られたということである。国の名勝指定の7庭園を含めて十数の庭園があり、日本の道100選に選ばれている。周辺の町並みも整備され、各庭園も母ヶ岳を借景として取り入れた枯山水があり、石垣も計算尽くされた配置になっている。

 観光客用の駐車場に車を止め、武家屋敷群に入った。知覧型二ツ家(町重文)が特に目についた。鹿児島に独特といわれる二ツ家の中で、特に知覧だけに見られる二ツ家は二つの屋根の間に小棟を置いてつなぎとした造りである。居住用のオモテと台所のあるナカエの建物が別棟なっている分棟式民家は生活上不便が多く、次第に近づけるようになった。知覧型二ツ家はその分棟式のオモテとナカエが合体したもので、知覧独特のものである。横に売店があり、ボトル入りの知覧茶を購入した。武家屋敷は現在住居として生活しているので、庭に入るのは、入場料500円必要である。時間の都合上庭には入らず、門の入口から覗いただけである。外側は各家競争のように生垣が立派な植木で、いろいろな形に剪定されていて眼を楽しませてくれている。各家には門があり、入ったところには石垣の屏風のような目隠しがある。この武家屋敷を一周し車道に出た、三つ角には魔よけの「石敢当」があり、歩道に沿ってある水路に鯉が泳いでいた。川に沿って知覧城跡の公園になっている。

 ここをあとに、近くにある「知覧特攻平和会館」に向った。本土最南端の特攻基地があったところである。

 知覧は1942年(昭和17年)、太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校、少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていたが、戦況が緊迫し険悪となり終に1945年(昭和20年)本土最南端の特攻基地となり、帰らざる壮途についた所である。

 これら至情至純の霊が、「とこしえ」に安らかにならんことを祈念して全国から浄財を集め、1955年(昭和30年)に特攻平和観音堂、1974年(昭和49年)に特攻銅像、1975年(昭和50年)に特攻遺品館が建立され、知覧町がまちづくり特別対策事業の一環として、1985年(昭和60年)から2ヵ年継続事業で特攻平和会館を新築した。

「知覧特攻平和会館」は太平洋戦争末期に、戦闘機で沖縄に飛び立ち、戦闘機もろとも敵戦艦に激突する特攻である。この基地から飛び立った若者が二度と帰らなかったところである。

 特攻隊員の、遺影、家族にあてた手紙や遺書、写真などの遺品、戦争資料などが展示されている。

 別れの盃を交わす写真、出撃直前の写真など涙せずには見られない遺品が多く展示されていた。

 特攻隊員の悲しい事実を後世に伝える重要な場所であり、二度と戦争を起こさないという気持ちにさせてくれるところである。

 平和公園の中にあり、銅像、飛行機なども展示してあった。また、知覧の歴史の博物館「ミュージアム知覧」もあった。

護国神社の前には参道両側に無数の燈籠や記念碑が建てられている。

 つい最近の5月12日より公開になった映画「俺は君のためにこそ死ににいく」(製作総指揮・石原慎太郎)で、実際の撮影に使用された「隼」が展示されている。

 この映画は、「特攻の母」として知られる鳥濱トメさんの視点から、若き特攻隊員の無残にも美しい青春を描いたものである。

 「隼」は太平洋戦争時、陸軍の主力戦闘機として活躍した一式戦闘機「隼」V型甲をモデルに当時の資料や少飛会の意見を聞いて忠実に復元製作されている。隼は当時知覧の特攻基地からは97式戦闘機に次いで多い120機が飛び立っている。

 また、特攻隊員の宿舎「三角兵舎」も建てられ、中も見られるようになっているが、隊員の最後の宿舎である。

 敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ偽装してあった。各地から集まった隊員は2〜3日後には沖縄の空に散った。出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会がもようされ、酒を酌み交わしながら隊歌を歌い、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また、別れの手紙等をしたためて、出撃して行ったところである。

 平和会館前に次の碑が建てられている。

 「帰るなき 機をあやつりて 征きしは 開聞よ 母よ さらば さらば」 鶴田正義

 ここをあとにして、元きた道を引き返し、県道23号線から指宿スカイライン、南九州自動車道を川内市の新田神社・可愛山陵方面に向った。

 川内インターチェンジで降り、新田神社へ向い、駐車場を探したところ、322段の石段がつづいている神社参道の右横に車用参道があり、本殿近くまで上ったところに駐車場があった。

 本殿の前の石段右側に大楠があった。樹齢650〜800年、高さ約20m、周囲約9.9mで、地上2mのところに彫刻があるが、これは慶長年間(1596年〜1615年)に新田神社を修築した時に、工事奉行の阿多長寿院盛淳が、自ら薬神ともいわれる大穴牟遅神の像を刻んで奉納したものと伝えられている。

    「可愛の山の 樟の大樹の 幹半ば うつろとなれど 広き蔭かな」 与謝野鉄幹

 石段を上った右側に安産に霊験ある子だき狛犬があった。

 新田神社は神亀山の頂上に、木々に囲まれて神殿があり、数千年の歴史を誇っている。

 主祭神はニニギノミコトで、併神はアマテラスオオミカミ、アメノオシホミミノミコトである。

薩摩一の宮で可愛山陵と隣接している。創建は725年(神亀2年)とも880年(元慶4年)ともいわれ、霧島神宮、鹿児島神宮と共に三大社とも称されている。始め神亀山の中腹に鎮座していたが、1173年(承安3年)社殿すべてが焼失、1175年(安元2年)仮殿が山頂に移された。現在の社殿は1601年(慶長6年)島津義久が朝鮮の役に際して祈願達成の報恩として造営したものである。

参拝後、右側に可愛山陵への案内表示板があり、神社の後ろ側に回った。後ろ側東隣の神亀山東麓に神代初代の可愛山陵があった。

国道3号線からすぐのところに陵への参道登り口があるが、神社からはすぐ行けるところであった。

神武天皇の曽祖父・天孫降臨ニニギノミコトの陵である。

 高屋山上陵管理人の山本氏は「川内市に入ると広々とした平野の中に亀山あるいは神亀山という小山がある。山は東西に延び周囲約4kmで、その形が丁度亀の寝た姿に似ているのでその名がついたであろう。陵はこの亀山の中央の一番高い所に方形墳の形で営まれている。御陵と壁一重の近くにミコトの神霊を祀る新田神社がある。」と述べている。

 神社のうしろにまわると、陵の参道につながっている。十数段石段を上ったところに、制札屋形があり、石柵と鉄扉に囲まれ陵がある。丁度新田神社の後ろ側に面している。

 陵の前石段を上ったところには、中は空洞で外側の皮を根で支えている楠木の大樹があった。

ニニギノミコト(古事記より抜粋)について

   天照大御神と高木神の二神が、日嗣の御子(皇太子)の正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(速須佐之男命が天照大御神との、身の潔白を証明する「誓約(ウケイ)」で、速須佐之男命が、天照大御神が左の髪に巻いていた勾玉を、噛んで砕き吐き出す息の霧から生まれた五柱の男神の一人)に対し、「高天原の神により葦原中国(地上世界即ち日本)を平定した。葦原中国に天降って統治しなさい。」と言われた。

    天之忍穂耳命は、「天降ろうとしているとき、子供が生まれました。名前は天津日高日子番能邇邇芸命(以下ニニギノミコトと略す)と申します。この子を天降らすのが良いと思います。」と答えた。

    この御子は、天之忍穂耳命が高木神の娘の萬幡豊秋津師比売命と結婚して生んだ子で、生まれた子は天火明命とニニギノミコトである。

 天照大御神は申し出の通り、ニニギノミコトに、「この豊葦原の水穂の国を、天降って治めなさい」と言われた。

  ニニギノミコトが天降りしようとするとき、道の辻に、高天原と葦原中国を照らしている見知らぬ神がいたので、天照大御神と高木神は天宇受売命(天岩屋戸の前にいた巫女神で、鎮魂祭に奉仕した猿女君の祖神)に命じて、神の正体を調べさせた。その神は猿田毘古命(伊勢の海人系氏族の信仰した神)で、ニニギノミコトの道案内のためにお迎えに来ていた。

 ニニギノミコトは、天岩屋戸から天照大御神を誘い出すときの神々、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五柱の神をお伴の者として天降りすることになった。その時、天照大御神は「(三種の神器)八尺の勾玉、鏡、草薙剱」を与え、思兼神(高木神の子)・天手力男命・天石門別神を加え与えて、天照大御神は「この鏡は、私の御霊として祀り、思兼神は私の祭りを執り行いなさい」と言われた。

   さてそこで、ニニギノミコトは高天原の神座からはなれ立ち上がると、天にかかる八重のたなびく雲を押し分けて、神威をもって道をかき分け、天の浮橋、浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降りされた。

   天降ったニニギノミコトは「ここは、韓の国に向かい合っていて、笠沙の御崎(鹿児島県野間岬)にまっすぐ道が通っており、朝日もまっすぐさす国で、夕日の明るく輝く国である。だからこの地は本当に良い処である。」と言って、地底の磐石に太い宮柱を立て、高天原にも届くような千木を高くそびえさせた宮に住んだ。

  ある時、ニニギノミコトは笠沙の御崎で麗しい美人に会った。大山津見神の娘で、神阿多都比売、またの名を木花之佐久夜毘売である。

○ 大山津見神に結婚の許しを得たところ、大変喜んで、姉の石長比売命を添えて嫁がせた。しかし姉は容姿が醜かったので、ニニギノミコトは一目見て恐れをなして、親元へ送り返し、妹の木花之佐久夜毘売だけを留めて、一夜の契りを交わした。

    大山津見神は姉の石長比売命を返されたことを恥じて、ニニギノミコトに「石長比売命をお使いになれば、天つ神の御子の命は永久に変わらないし、木花之佐久夜毘売をお使いになれば、木の花が咲き栄えると思い娘達を差し上げた。このように石長比売命を返させ、木花之佐久夜毘売だけをお留めになったので、天つ神の御子の寿命は、木の花のようにはかなく散りましょう」と申し送った。そのため、今に至るまで、天皇たちの寿命は長くなくなってしまった。

 ここをあとに駐車場まで戻り、新田神社石段参道下に車を止め、太鼓橋や欄干など近辺の写真を撮った。特に目についたのは、作詩与謝野晶子、作曲中山晋平の「みくに幼稚園の歌碑」であった。

 昼食は近くにあった黒豚とんかつ屋「壱番館」でミニとんかつ定食を摂った。

ここをあとに、一路カーナビに任せ遠回りもしながら国道267号線、国道504号線を通り高屋山上陵に向った。

 国道504号線に面して高屋山上陵の駐車場があり、陵名の書かれた台形の石柱と、整備された約190段の石段が我々を迎えてくれた。ここが表参道である。関係者は西側にある参道で陵の近くまで行けるとのことである。神武天皇の祖父・ヒコホホデミノミコトの陵墓である。

 石段を上ったところ正面に石柵と鉄扉の中に制札屋形、その奥に石柵と鉄扉があり、鳥居と燈籠のある陵がある。

 石段を上った右側には、小さな丘があり、ここは教育委員会が管理しているとのことである。東宮殿下御参拝記念碑や高屋山上陵の説明板などがあった。

 陵墓連絡所に管理人の山本氏が居られたので陵墓について説明をしてもらった。山本氏は代々この地方の由緒ある名士で、5代目の管理人である。神代三陵についても教えてもらった。

 山本氏は「ここ高屋山上陵は内面積53,000u、形式は二段山造りの楕円形状の円墳で、御拝所から正面上、高さ約60mの山頂に築かれている。上古より室町時代にかけて、山頂にはミコトを祀る鷹屋大明神と呼ばれる祠があり、当時は御陵を中心にしてこの付近は老木大樹鬱蒼として千古の樹海をなしていたと伝えられる。このため猛獣毒蛇などが生息し農作物を荒らし、住民に危害を及ぼすなどしたので、住民はことごとく神威の荒れ給うと言い恐れること一方ならず、1411年(応永18年)に、当時溝辺城主であった肝付は「この儀、恐れ多しこと」として、御陵の南「橋之口」に遷宮したと伝え記されている。また、当時戦乱あいつぎ御陵の管理はおろそかになったが、土地の豪族により細々と管理がなされ、山頂の8合目ほどの所に注連縄が張ってあったという。いまでも御陵の地名を神在りの岡、あるいは神割の岡とよび地元民の尊崇を受けている。徳川時代も終わりをつげ、王政復古が達成されると、1869年(明治2年)12月より翌年1月にかけて陵墓の確認調査、発掘がなされた。」と述べている。

 ホホデミノミコトの陵墓として、高千穂の山の西にあるとのことで、1874年(明治7年)、溝辺麓にある神割岡が明治政府により陵墓として治定された。

 陵墓の東南方向に鹿児島空港があり、時々、ジェット機離着陸の音が聞こえてきた。

ホオリノミコト(古事記より抜粋)について

 木花之佐久夜毘売がニニギノミコトの前に出て「妊娠して出産の時期になったので知らせに来た。」と言った。ニニギノミコトは「一夜の契りで妊娠したというのか。私の子でなく、国つ神の子ではないか。」と言った。木花之佐久夜毘売はそれに答えて「もし、国つ神の子であれば、産むときに無事に生まれない。もし、天つ神の子であれば無事生まれるでしょう」と言って、戸のない大きな産屋を作り、その産屋内に入って土で塗り塞いで、生まれる時になると、火をその産屋につけ、火が燃える最中に子供を生んだ。そして、その火の燃え盛る時に生んだ子の名前は、火照命(海幸彦、隼人の阿多の君の祖神)、次に生んだ子は火須勢理命、次に生んだ子は火遠理命(天津日高日子穂穂手見命、山幸彦)である。

   火照命(海幸彦)は海の魚を獲り、火須勢理命(山幸彦)は山の獣を獲っていた。ある日、弟の山幸彦は兄の海幸彦に猟具と釣針を取り換えることにした。しかし、山幸彦は釣針を無くしてしまった。兄の海幸彦は返せ返せと責めた。山幸彦は十拳の剣を潰して、500本の釣針を作って償おうとしたが、海幸彦は受け取らず、元の釣針を返せと言った。

  弟の山幸彦が泣き悲しんで海辺にいた時、塩椎神(潮の神)がやって来て理由を聞いた。すると塩椎神は竹籠の船を造って、山幸彦を乗せ、「大綿津見神(海神)の宮殿に着いた時、門の側にある桂の木に座っていると、大綿津見神の娘が助けてくれるだろう。」と言って宮殿に行かせた。

 宮殿に着いた山幸彦は塩椎神に言われた通りにしていると、大綿津見神の娘の豊玉毘売命がやって来て助けた。理由を聞いた大綿津見神はもてなし、豊玉毘売命を妻として与えた。

  3年間滞在したある日、ここへ来た時のことを思い出し大きなため息をした。訳を聞いた大綿津見神は海の大小の魚類を全部集めて訪ねたところ、赤鯛ののどに釣針があった。

  大綿津見神が山幸彦に、この釣針を兄の海幸彦に返す時、「この釣針は心が晴れ晴れとしない釣針、心がそわそわして落ち着かない釣針、貧しくなる釣針、愚かなる釣針、と言って、手を後にまわして返しなさい」と教えた。そしてまた、「兄が高いところに田を作ったら、あなたは低いところに田を、低いところに田を作ったら、高いところに作りなさい。私は水を司っているから、3年のうちに、兄は貧しくなるでしょう。もし、そうしたことを怨んで攻めて来た時は、潮盈珠(満潮を起こす)を出して溺れさせ、もし、苦しんで許しを乞うならば、塩乾珠(干潮を起こす)を出して助け、このように悩ませ苦しめてやりなさい」と言って、山幸彦に潮盈珠と塩乾珠の二つの珠を授け、一日で送り迎えの出来る一尋ワニに乗せ送り出した。山幸彦は、そのワニを返そうとする時、紐付きの小刀をワニの首に掛けて返した。この一尋ワニは佐比持神という。

 このように山幸彦は、大綿津見神の教えられた通り、釣針を兄の海幸彦に返した。3年のうちに兄は貧しくなり、攻めてきたが、教えの通り悩まし苦しめた。兄の海幸彦は頭を下げて、「私は、これから後はあなたのために、昼夜の守護人となってお仕えします。」と言った。そのため今日に至るまで、隼人(海幸彦の子孫)は、水に溺れた時の様々なしぐさを絶えることなく演じて宮廷に仕えている。

 ここをあとに県道56号線、国道223号線を通り霧島神宮に向った。

 途中、溝辺物産館で休憩、国道504号線をはずれ、県道56号線を通り、国道223号線に入り霧島温泉経由で霧島神宮に行くことにした。

 県道56号線から国道223号線に入り、少し行った所(塩浸温泉)に「坂本龍馬お龍新婚湯治像」碑が建っているのが見えた。

 神宮は霧島温泉の近くということで探したが、カーナビや地図で探したがどの道を行けばよいかわからず、霧島温泉で道を聞いたところ、約7km先とのことであった。丸尾の滝、神話の里公園を経由して霧島神宮に着いた。

 大きな鳥居が見えた。これは神宮大鳥居で高さ22.4m、柱と柱の間は16mである。

参道の石段下に車を止め、100段近い石段を上ると鳥居と参道が続いていて、両側に西郷従道など鹿児島の偉人が寄進した燈籠が立てられている。突き当たりは広場になっていて、参道は右側にカーブしている。広場では左側は霧島神宮の展望台になっていて、霧島連山が望まれるようになっていたが、残念ながら曇っていて見えなかった。その近くには坂本竜馬夫妻の写真用人形が作られている。この霧島は坂本竜馬夫妻が西郷隆盛の勧めで日本で始めてといわれる新婚旅行に訪れたところである。

鳥居をくぐり参道を進んで行くと、巫女さんが歩いて来た。なんとなく神社らしく、また、朱塗の神殿は鎮守の森に囲まれ豪華に見えた。

この神宮には桃山時代に奉納されたといわれる木彫りの霧島九面がある。これはニニギノミコトの従者として天降った神々の姿を似せて作ったもので、全部で9つあることから九面といわれ、「王面」が2面、「神楽面」が2面、「天狗面」が5面あるといわれている。

本殿の右手にある大木は神宮の神木で「霧島メアサ」と呼ばれる大杉で、樹齢800年、高さ35m、周囲7.3mである。

また、1952年(昭和27年)揮毫の徳富蘇峰の「神聖降臨之詩碑」があった。

「神聖降臨地 乾坤定位時 煌々至霊気 万世護皇基」

 その他、手水舎もユニークであり、境内には国歌に詠まれているさざれ石もあった。

祭神はニニギノミコトで、相殿にはコノハナサクヤヒメ、ホホデミノミコト、ウガヤフキアエズ、神武天皇、トヨタマヒメ、タマヨリヒメが祀られている。

 神宮は霧島連山第二の高峰高千穂峰山頂(標高1,574m)に鎮座していたといわれている。延喜式には日向国諸県郡霧島神社が載っている。6世紀に慶胤が高千穂峰の背門丘に社殿を造営したが噴火で焼失し、10世紀なかば性空上人が西麓の高千穂河原に再興したと伝えられている。1234年〜1235年(文暦年間)の大噴火で再び全焼、1484年(文明16年)兼慶が島津忠昌の命を受けて現在地に再興したが、また、噴火で炎上した。現在の社殿は、1715年(正徳5年)に島津21代吉貴によって再建されたものである。登廊下・拝殿・幣殿を伴った入母屋造の本殿の規模は全国屈指である。また、本殿は内外面とも豪華な装飾が施されている。

 拝殿正面に菊の御紋章がついた賽銭箱があり713年(元明6年)に作成されていている。

 ここをあとに元来た国道223号線を引き返し、霧島温泉郷に向った。

 本日の宿は霧島観光ホテル別館のビジネスホテルヴァンベール(霧島市牧園町高千穂3885、TEL0995―78―3313、シングル宿泊のみ、4500円)である。温泉郷の中心丸尾交差点の一角に、一階は駐車場とタクシー会社があり、二階がロビーであった。夕食は近くにあり、観光雑誌で紹介されているそば茶房「紗菜花(さなか)」でそば定食を食べた。特長は鹿児島の醤油を使っていて甘口とのことだった。

 ホテルでは外人が長期滞在をしていた。風呂は部屋にあるが、ここから約150m離れた本館霧島観光ホテルに行き入った。

 第二日目の走行キロ数は215kmである。

5月16日の巻

 朝7時に本館霧島観光ホテルに行き、朝食のバイキング(1000円)を摂った。

 土産物を買い、国道223号線を狭野神社に向って出発した。再度霧島神宮前を通過、途中、「御池皇子浜入口」との看板があり、御池駐車場があった。池の向こうに見る高千穂の峰はなんともいえない景観であった。ここは高齢天然広葉樹林が広がる「御池森林レクレーション地区」となっている。

 この駐車場に「霧島バードライン」と書いてある二人の可愛い子供を乗せた石標が立っている。宮崎県では各主要ロードに名前をつけていて、ここを通る国道223号線をバードラインと名付けている。

 ちなみに、「ひむか神話街道」は高千穂町から五ヶ瀬町椎葉村南郷町、西都原を通り、高原町(南の高千穂)を結ぶ神話と伝説の道である。

 地元の人が休憩していて、よく晴れた日には高千穂の峰にある逆鉾に太陽の日があたり光って見えるとのことである。頂上に少しとがったところが見えるので、あれが逆鉾かと想像した。また、御池に映った高千穂の峰も素晴らしかった。

 なお、駐車場に4月23日に一人で岩手を出発して、赤い軽自動車に生活用具を載せて一人でドライブしている老人がいた。奈良の古墳や西都原の古墳など見て今日ここに着いたとのことであった。自動車の中にカラオケセットが置いてあった。

 ここをあとに国道223号線から側道(神武の道)に入り狭野神社に向った。

 狭野神社の本殿に近い西駐車場に着いて車を止め、約350m離れた南参道(表参道)より参拝することにした。西参道からも高千穂の峰の連山が遠望できた。

表参道では鳥居の横の大きな石標に「別表 狭野神社」と表示されていて、他神社でも見られない「別表」の表示がしてあった。これは神社本庁が定めた神社本庁が包括している一部の神社のことである。戦後公的な社格の制度が廃止されたため、それに変わるものとして定められた。社格制度廃止後は伊勢神宮を除き、全ての神社は対等な立場であるとされた。一部の規模の大きな神社については、神職の進退に関して、一般神社と同じ扱いにすると不都合があることから、「役職員進退に関する規程」において、特別な扱いをすることと定めている。その対象となる神社を規程の別表に記載されていることから、別表神社(別表に掲げる神社)と呼ばれている。別表神社には神社本庁配下の旧官幣神社が全て含まれている。また、指定の護国神社などの一部が含まれている。

参道の両側には杉の木があり、狭野杉と呼ばれていて、1599年(慶長4年)薩摩藩主島津義弘が重臣新納武蔵守忠元を遣わし、当神社別当神徳院の住職宥淳法印と協力し植栽したものといわれている。中には樹齢400年の杉(周囲90cm、高さ40m)があり、1992年(平成4年)宮崎の巨樹百選に認定されている。

5月16日は祭礼で「御田植祭」の準備中であった。

 狭野神社の祭神は神武天皇で、配祀として皇后の吾平津姫命、及び神代三代の父母、祖父母、曽祖父母である。なお、神武天皇の幼名狭野を使い狭野神社としている。

 第5代孝昭天皇の時、神武天皇の降誕の地に創建された。788年(延暦7年)に霧島山噴火により社殿炎上、その後、噴火の度に東霧島神社などに遷座されたが、1610年(慶長15年)旧狭野の地に社殿を造営・遷座した。その後、島津氏により社殿の造営・改築などが行われた。1873年(明治6年)県社に別し、1915年(大正4年)6月官幣大社宮崎神宮別宮に指定された。高千穂の峰を中心に点在している霧島六社権現(霧島神宮・霧島東神社・狭野神社・霧島峯神社・夷守神社(峯神社と合祀)・東霧島神社)の一つである。

 境内に「散りていに 花の行方は風を知る 吹き伝えても 我に教えよ」の慶長15年春新納武蔵守

忠元の歌碑があった。この歌は「風に語りかけた忠元85歳春の心境」を歌ったもので、「散っていった花の行方は風だけしか知らない。昨年の春花と共に老妻を連れ去った風よ、もし老妻の消息を知っているなら、風のたよりにでも、私に知らせてくれよと」の意味である。この碑は狭野杉植樹400年を記念し忠元を顕彰したものである。

 また、絵馬に天然記念物仏法僧鳥が書いてあったので、聞いたところ、昔狭野神社の杉並木には、初夏南方より飛来する渡り鳥仏法僧鳥が沢山いたとのことで、絵馬にしているとのことである。近年狭野杉が枯渇倒木し、営巣場所がなくなり飛来しなくなったとのことである。

 ここをあとに、国道223号線に戻り、国道221号線、国道265号線を通り小林市にある「陰陽石」に向った。

 「陰陽石」に行く道路の曲がり角近くに「田の神」というユニークな人形が見られた。これは2006年(平成18年)3月23日に指定された小林市指定有形文化財で、「仲間の田神」(高さ1.23m、横幅0.68m)といわれている。建立は1722年(享保7年)で、五穀豊穣を祈って造られた石像で、南九州地方に分布する独特のものである。市内にも全部で40余体の田の神が残っていて、年代の古いものが多いのが特徴といわれている。像の背面に「享保7壬寅三月吉日伝吉清左衛門」と刻文が刻まれている。

「陰陽石」の駐車場から川の方へ下りて行く入口があり、下りると「愛の資料館博物館」があったが、今は寂れて閉まっている。最初のころの隆盛が想像できる。その隣には陰陽石神社などが建てられていた。祭神は皇産霊神(どんなことでも一言祈願すれば必ず霊験あらたかにしてくれる神)である。旧藩主が神司を遣わし、多くの領民を集めて五穀豊穣と領民の幸福を祈願させている。その横には御影石で出来た「宮日新観光地百景」の碑が建てられている。そして注連縄をした簡単な朱色の鳥居があり、その向こうに大きな陰陽石があった。

 霧島火山帯の火山活動による溶岩(自然造化説)で、伝説では昇天の竜が生娘に見惚れて降りたとも言われ、別名を竜岩ともいっている。

 陽石の高さは17.5m、茎頭の回りは18.8m、陰石の周囲は5.5m、陽と陰の間は6.3mである。

 左側に側道があり、「女石」と書かれたところに行くと、その場所には小さな小屋が建てられていて、性に関するいろいろ石造物があった。ここから陰陽石の裏側を見ると、陽石が見られ陰陽石が実感できるところである。また、ここには平らな岩などあるが、見ようによってはこれが看板にある「女石」かと思われた。

 ここをあとに、この近くでガソリンを補充、小林インターチェンジより人吉市に向った。

 我々の仲間のS氏が、9年前人吉の寿福酒造(焼酎製造元)で飲んだ美味さと人情味豊かな女杜氏に引かれ、以後毎年購入している。今回の旅行で是非訪ねたいということで、皆で訪ねることにした所である。

 九州自動車道を人吉インターチェンジで降り、人吉城跡で休憩し、近くの城跡や寺院を見た。人吉は元巨人軍監督川上哲治の実家のあるところである。城跡近くの林鹿寺には西南戦争では西郷軍が攻めてきたことの「記念碑」建てられている。

 天気予報で昼頃から雨が降るといっていたが、昼前に「純米蔵球磨焼酎武者返し」と看板のかかっている寿福酒造に着いた。丁度雨が降り始めた。

 4代目杜氏の寿福絹子氏の歓迎を受け、事務所で話をしたあと、隣にある焼酎瓶の並んでいるお店に行き、奥にある昔の建物を改造した二階で昼食をごちそうになった。二階から裏にある胸川(球磨川の支流)が見えるが、杜氏の小さいときこの川で泳いだとのことである。しかし川の治水のための改造整地工事で、工場敷地を大半削除され、現在の敷地になったとのことである。

 食事後焼酎の工場を見学した。焼酎は常圧蒸留と減圧蒸留で作られるが、現在はほとんど飲み口のいいということで減圧蒸留が主流になっているが、伝統の常圧蒸留で作られるのが球磨唯一の寿福酒造である。減圧にすると沸点が低くなり、飲みやすくなるが、品質の良い米の本来の味がでなくなるといわれている。

 寿福酒造は1890年(明治23年)創業で、常圧蒸留で作る伝統を守っている。こじんまりした工場であるが、良質の米、良質な水など高品質な原材料を用いている。伝統の長い経験と勘を駆使した手作りのため、生産量は限られるが、焼酎党にとっては、他の減圧蒸留の焼酎より旨いといっている。そのため、常に品薄とのことである。

 裏の川側に出て、煙突を見たところ、藤が煙突を取り巻いて、あたかも藤の大木と思わせていた。

 寿福絹子さんは、オイルショックの頃、後を継いで4代目杜氏になり、苦しい時を乗り越え、この伝統を守り抜き現在に至っている。話の中にその人柄がにじみ出ていた。

 帰りには全員に特別に寿福酒造の前掛けを頂いた。

 名残惜しいが次の訪問先通潤橋に向うことにして、寿福酒造に別れを告げた。

 九州自動車道を人吉インターチェンジから御船インターチェンジまで行き、国道445号線を東進、通潤橋までの途中の橋を見ることにした。最初は緑川流域八勢川に架かる下鶴橋である。雨はタイミングよく止んだ。この下鶴眼鏡橋(高さ約23.63m、幅約6.36m)は、東京の二重橋、日本橋を始め通潤橋を架設した名工橋本勘五郎・弥熊父子によって、1882年(明治15年)10月から1886年(明治19年)10月まで約4年間を費やして造られた。しかしこの石橋も交通量の激増などで耐え切れなくなり、横に近代的な橋が造られている。

 次に国道445号線より約4km側道に入り、八勢橋に向った。この八勢眼鏡(鑑)橋(長さ約62m、幅約4.0m)は江戸時代熊本と延岡を結ぶ日向街道はここを経て矢部に通じていた。増水すると通行出来なくなり不便で、危険であったため、1855年(安政2年)御船の材木商田熊寛が私財を投じて架橋した。橋は八勢川本流に架かる部分、左岸を流れる用水路に架かる部分が一体となっており、県下の石橋で最も長い。別にもう一つの水路橋が架けられている。石工卯助・甚平兄弟らによって架設された。「眼鏡橋と石畳の道」の木柱や石柱、説明板、近辺地図などが建てられていた。また、日向街道六里木跡の碑や2005年(平成17年)に作られた「架設150周年記念碑」の大きな石碑もあった。

 元来た道を国道445号線まで戻り、東進、途中、立野橋や夕尺橋などの看板が架かっていたが、田んぼの中の小川にかかった石橋であった。雨が降り出してきた。

 次は金内橋である。445号線の御船川を渡ったところからすぐ上流に見えた。

 金内橋(長さ31m)は上部がコンクリートで覆われている。河原から見ると大小の眼鏡橋になっているが小さい方は見にくかった。ここにも架橋150年記念碑の石碑が造られていた。

 ここをあとに一路通潤山荘に向った。途中、通潤橋が遠望出来た。山荘に到着後、雨の中通潤橋見学に出かけた。途中、布田神社があった。通潤橋を築造した布田保之助を祀っている。

 通潤橋(石造アーチ架橋サイホン式)は対岸の通水路から三筋の水路でサイフォンでこちら側(通水吹上口)に流れるようになっている。放水時のみ栓を開けるとのことで、現在は止めてあった。予約すると、料金はかかるが放水が見られるとのことである。

 通水路管側には放水時の水門が造られ、6kmはなれた笹原川から水を送り届けている水路があり、放水しない時は、近くの水路で下の川に滝のように流している。

 通水吹上口側には、石柱や説明板などあり、下の河原に降りて行けるようになっている。下の河原から見ると橋のアーチ状のところより遠くの景色が見え、放水した時は素晴らしい景色になると想像された。河原には照明装置もあった。また、通水吹上口側には資料館もあり、自由に入れ、中には橋の模型、関係書類などが展示してあった。建物の裏に大きな杉があるが、布田保之助が記念に植えた杉である。

 見学を終え、山荘に帰り夕食を摂った。

 夕食は通潤山荘名物「春の田舎御膳」である。

 ちなみに品書きは次の通りである。

 (小鉢)季節の和え物、(お刺身)緑川産鱒、(焼物)やまめの塩焼き、(台物)牛肉の豆乳なべ、(酢の物)柚子こんにゃく、(揚物)地元野菜のてんぷら、(麦鉢)茶そば、(煮物)竹の子と湯葉の煮物、(ご飯)炊き込みご飯・香の物、(吸物)だご汁、(果物)季節の果物とたべきれない量であった。

 風呂は山荘の隣に「浜の湯」という風呂施設があり、近辺の人達が入浴に来ていた。宿泊客はそのまま入浴出来る様になっている。

 なお、今日の宿泊は国民宿舎通潤山荘(山東町長原192−1、TEL0967―72―1161、10,200円)で、全員ツインの部屋である。広々として宿泊できた。

 第三日目の走行キロ数は217kmである。

 

5月17日の巻

 朝は雨は止んでいたので、五老滝、つり橋方面の散歩をした。薄暗い中水神堂、五老橋を通り、滝を見て、つり橋を渡り、朝早くから田んぼを耕している人に挨拶して、棚田の中の道を通り、通潤橋を渡って帰ってきた。

 7時に朝食を摂り、早く出かけることにした。

 近くにある道の駅「通潤橋」で写真を撮った。お土産店の他、グロテスクな大きな人形三体などがあり、萱葺きの「矢野町民族資料館」もあった。矢野町は江戸時代末期、当地方独特のかやぶきの家屋が作られ、台所棟・表棟・屋敷棟の平行三棟造(三ツ家造)である。これは強い風対策、家屋を建てる時の厳しい制限のためといわれている。

 「煙る春雨峠を越えりゃ 矢野郷七里に茶の芽が萌える 酒屋白壁桜が咲いて 矢野は茶所酒所」

 の小唄の碑もあった。

ここをあとに国道218号線を高千穂に向った。

 途中までは自動車一台通るのがやっとの国道で、バス停もありバスが通る道路であった。しばらくすると国道らしくなった。道なりに国道218号線を進み、高千穂大橋前で休憩、高千穂神社に向った。神社の駐車場についた時、小雨が降り出したがすぐ止んだ。

 道を挟んで「高千穂夜神楽うずめの舞」の石造人形や、うしろの小高いところに猿田彦神社があった。

 銅製の鳥居をくぐり参道を行くと、石段で巫女が掃除をしていた。昨日の夜の風雨で落葉が多かったとのことである。

 高千穂神社は神武天皇の兄・三毛入野命が東征の途中、高千穂に帰り、日向三代を祀ったのがはじめで、その子孫が長く奉仕し、後には三毛入野命夫婦と八柱の御子を合祀して、十社大明神を神名とし、高千穂郷八十八社の総社として崇められている。

 本殿は1778年(安永6年)、延岡藩主内藤政脩が造営、2004年(平成16年)7月6日国重文に指定された。建物の柱6本が一間ずつある「五間社流造」は県内唯一である。本殿向って右側に三毛入野命が荒神鬼八を退治した様子を伝える浮彫付脇障子が立ててあり、左側には一間社両流造の稲荷社が付けられている。

 天正年間三田井氏が滅んで延岡領となったが、歴代藩主はそれぞれ社領を寄進し奉幣して明治を迎えた。1925年(大正14年)秩父宮をはじめ十数家の皇族の参拝があり、1971年(昭和46年)別表神社になった。

境内には、鎌倉時代源頼朝が畠山重忠を代参させ、杉を植えさせた。今は秩父杉(樹齢約800年、高さ55m、周囲9m)として高くそびえている。また、夫婦杉もあり、2本の杉の根元がくっついた巨樹である。大好きな人と手をつなぎ、この杉の周りをまわるといつまでも仲良くいられるといわれる。

 頼朝はまた、拝殿内にある鉄製の狛犬一対(国重文)を寄進している。

 「高千穂宮鎮石」があるが、これは第11代垂仁天皇の勅命により、わが国で始めて伊勢神宮と高千穂宮が創建された際、用いられた鎮石と伝えられている。この石を祈ると人の悩みや世の乱れが鎮められるといわれている。

この神社の隣に立派な神楽殿が作られているが、1772年(昭和47年)4月15日に作られた神楽殿が老朽化のために売却し、建て替えた神楽保存館である。神楽が常時行われているとのことである。

 巫女と一緒に記念写真を撮った。

 ここをあとに近くの高千穂峡に向った。駐車場に車を止め、遊歩道を散策した。

 右側に池があり「おのころ島」がある。昔この池には桜川神社があり、鵜の鳥はこの社に仕える神聖な鳥であったと伝えられている。高千穂神社の春祭で御神幸のお神輿がこの池を三度まわって禊している。

 神橋久太郎水神があるがこれは高千穂郷を貫流する五ヶ瀬川流域の要地5ヵ所に「ウガヤフキアエズの子・五瀬命」に命じられた5人の兄弟水神が、この地三田井、御塩井に中央守護のため配され、鎮座したのが始まりとされている。

 高千穂峡は阿蘇の溶岩による侵食によって出来た渓谷といわれ、柱状節理のそそり立つ断崖・岩をかむ激波、など景観である。

 「玉垂れの滝」の上に「日形・月形」が見えるが、これはところ払いになったスサノオが出雲に下るとき、お詫びの証を造ることになり、天照大神は日の光る太陽として日形を彫り、自分の光は月の半分もないとして、三日月の穴を彫り、その後、高天原を去り、出雲に行った。江戸時代には日形・月形の絵図も残されているが、現在、日形は崩壊し月形のみが残っている。

 遊歩道を進んで行くと、展望台から真名井の滝(太古の昔、阿蘇山の噴火活動で流れ出た溶岩の侵食によって形成された渓谷での滝)が良く見えた。沢山の人がシャターをきっていた。

 高千穂神社の祭神三毛入野命が鬼八を退治するとき、鬼八が三毛入野命に投げ、力自慢したという「鬼八の岩(重量約200トン)」、対岸に広がる屏風面の岩をいい、上流の新橋付近から下流の真名井の滝・ボート乗り場付近まで、自然の造形美が美しい「仙人の屏風岩」(高さ70m)、五ヶ瀬川の中で最も狭いところで、1591年(天正19年)県の領主(今の延岡)高橋元種に高千穂が攻められた時、三田井城が落ち、城を脱出した家来達がここまで来たが、橋が無いので、槍の柄を手前の岸についた者は飛び渡り、向岸についた者は川の中に転落したと伝えられている「槍飛」などが見られた。三つの橋の見えるところで記念写真を撮り、元来た遊歩道を戻った。駐車場の売店で日向夏みかんのソフトクリームを食べた。

 ここをあとに天岩戸神社に向った。

 駐車場で大きな岩を抱えた人形の色つきの石造が建てられているのが見られたが、高千穂の神楽33番のうち、岩戸3番とよばれる神楽(「手力雄」・「鈿女」・「戸取り」)に登場する神様が手力雄命で、天岩戸を投げ飛ばす力自慢の神様を表現したものである。

 七五三の注連縄がぶら下がっている木製の鳥居の下で小学生が写生をしていた。参道を進んで行くと、左側に明治天皇の歌碑「天てらす 神のみいつを 仰ぐかな ひらけゆく 世にあふにつけても」と「目に見えぬ 神にむかひて はじざるは みの心の まことなりけり」があった。

 天岩戸神社の祭神は大日霊尊(天照大神)で西本宮と東本宮があるが、西本宮に参拝した。

 西本宮の創建は不詳で、記紀には天照大神が天岩戸に籠もられたことが記してあるが、その天岩戸周辺を神域・御神体として祀ってある。社殿は天岩戸を直拝し、岩戸川の渓谷を挟んで御霊代鎮祭の東本宮と相対している。そのため本宮は拝殿のみである。  
 本殿の右側にご神木の「おがたまの木」(別名黄心樹、モクレン科、招霊の木)があるが、これは天鈿女命がこの枝をもち舞った。神楽鈴の起源である。4月頃白い花が咲き、秋には鈴様の実を結ぶ。常陸宮(義宮)が1954年(昭和29年)成人式、1964年(昭和39年)結婚に際して苗木を献上、おがたまの花が常陸宮家の御紋章のおしるしである。

 神社の前を通過し、裏門を出て少し進んだところに、川に降りて行く道があり、川に沿って進んで行くと、小石を積んだものが無数にあり、簡単な鳥居のある祠が在った。ここが天の安河原及び仰慕窟である。天の安河原は天照大神が天岩戸へ入り、八百万の神々が集まって相談したところであり、仰慕窟は安河原の一角に間口40m奥行き30mの大洞窟(岩屋)である。ここに参拝すると願事成就、中風にかからず軽症ですむとの信仰がある。

 ここをあとに元来た道を引き返し、駐車場の前にある売店でお茶を飲ませてもらった。昼食は二軒隣にある食堂で今宮崎の話題になっている地鶏定食を摂った。

 昼食後、再び国道218号線で立磐神社に向った。

 途中道の駅「青雲橋」で休憩した。道標に青雲橋と大きく書かれている。長さ410m、幅12.5m、高さ137mでスパンドレルブレースドアーチというそうである。

 ここにも二人の可愛い子供が乗った石標があった。この国道は「神話街道」である。

 少し進んだところで、県道20号線に入り、続いて国道388号線に入った。対向車が来るとすれ違いするのが困難であった。国道といっても山道で片側は川である。途中から国道らしくなった。道なりに進み、門川町の国道10号線で南下、日向市美々津に着いた。

 ここは神武天皇が東征に向ったところであり、日本海軍発祥の地である。

 車を海軍発祥の地の碑のある前辺りに止め近辺を散策した。

「海軍発祥の地」碑は1942年(昭和17年)9月10日建立し、1969年(昭和44年)9月12日に復元している。日本海軍は、天皇が統率された海軍であることから、国が、神武天皇御親卒の水軍が初めて編成され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥の地」と定め、紀元2600年記念事業の一環として建立された。

 碑文の文字は、時の内閣総理大臣海軍大将米内光政の揮毫により碑面に刻記された。この碑は終戦直後進駐軍によって碑文が破壊されたが、地元有志の強い要望により、防衛庁(海上自衛隊)などの協力を得て、現在の通りに復元された。

 碑の中ほどに、神武天皇東征時の小さな船の埴輪の模型がついていた。

 この碑の横に「海軍両爪錨」が置いてある。子供たちがそれに乗って遊んでいた。

 この錨は、1940年(昭和15年)紀元2600年の記念を祝い、日本海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社主催により、軍船「おきよ丸」を造船し、この美々津港から大阪中の島まで神武天皇東征の聖蹟を巡航し、橿原神宮に神楯を奉献した。この日を記念して企画された「発祥の碑」と「両爪錨」の製造が1942年(昭和17年)に行われた。以来、両爪錨は戦後を経て、海上自衛隊に移管されていたものを、海上自衛隊よりこの地に帰還したものである。

 左側は「立磐神社」の境内で、「ゆるぎなき神岩っ根踞しませるみ影をしのぶ立縫之里」の歌碑や「聖蹟美々津」、「由緒説明板」など数個の碑が建っている。また、神武天皇が東征時、腰掛けた岩が、石柵に囲まれその前には石造りのこじんまりした鳥居が建てられている。

 「日の草の 赤が美栄えて とことわに 瑞穂の国は 栄えまつらむ」の神武天皇東征船出の際の歌碑もある。これは神武天皇が「おもと」を観賞され、おもとの雄大な葉緑素の強い葉姿のおもとが、大地にへばりついた根元に、赤い実がなり、横には数限りない繁殖したおもとの姿を観て、我が瑞穂の国をおもとに託された歌と思われている。

 数段ある石段を上った所に大樹があり根元に空洞があり祠が作られていた。

 正面に立磐神社がある。

 神社は神武天皇東征の時、美々津港より船出、航海の安全を祈念して、この埠頭に住吉大神といわれる底筒男命・中筒男命・表筒男命の三柱の大神を奉斉したとして、第12代景行天皇の時、創祀された。その後、崇敬され祭礼も行われた。1578年(天正6年)大友氏と島津氏との戦火に罹り焼失した。1623年(元和9年)再興、寛文、宝永の頃に旧観に復元した。1934年(昭和9年)は神武天皇東征船出して、丁度2600年に相当、全国的に東征祭典が行われた。

 この地は伝統的建造物群保存地区になっていて、昔の建物が多く残っている。各家のポストに神武天皇東征時の船を描いてあるのが目についた。

 伝建地区を見学中、この美々津で、立縫区自治会長・公民館長をしている佐藤久恵氏より案内してもらえるようになり、「民」という民芸品も売っている喫茶店でコーヒーを飲みながら、概要を聞いた。その後、はねあげ式の縁台の「ばんこ」(ばったり床机)など町屋の特徴や、「石敷道路」、「火除地」、「共同井戸」などの説明を受けながら地区をまわった。広い間口と奥行きの平入造りで、一階は出格子、二階は虫籠窓の典型的な商家造の町屋が多く見られた。その後、町屋として公開している佐藤さん宅を見せていただいた。

 佐藤さんと別れ、西都原都萬神社に向った。       

 国道10号線を南下、途中県道40号線、国道312号線に入り、都萬神社に着いた。5時前で神社の扉を閉めているところであったが、お願いして開けてもらった。拝殿内には、日本一といわれる、1450年(宝徳2年)作の大きな太刀(長さ約3.5m、刃渡り約2.4m)が飾ってあった。

 都萬神社の祭神はコノハナサクヤヒメで創建ははっきりしない。延喜式内社で妻萬宮とも云う。この近くにある縫初川で見合いし、事勝国勝長狭神の仲人により、八尋殿で結婚式を挙げた処と伝えられている。一夜にして懐妊したため、ニニギノミコトに疑われて、純潔を示すため産屋に火をかけたが、無事3人の皇子を生んだ。母乳が足りないので西都原より湧き出る水を利用して、狭名田という細長い田を作り、その田の稲(米)で甘酒を造り、その甘酒を以って三人の皇子を育てたと伝えられている。

 境内には、わが国で始めて米を使って酒を造ったので、「日本酒発祥の地」の碑が立っている。また、この近くには酒元という地区もある。

 摂社として、大山祗神社(祭神:オオヤマツミノミコト)、霧島神社(祭神:ニニギノミコト)、四所神社(祭神:コノハナサクヤヒメの姉、天児屋根命、トヨタマヒメ、太玉)

 その他、古墳より出た遺物の塚「おしもり塚」、樹齢1200年の「妻のクス」や杉などがあった。

 なお、この神社で行われる「更衣祭」(7月7日夕祭)は珍しい祭典とのことである。これは、サクヤヒメの御神像に花嫁衣裳を着せ、白粉や口紅をつけ、角隠しの帽子をかぶせ、花嫁姿になる有様まで行う神事である。「若草の つまのやしろは 今も尚 昔を偲び 花嫁つくる」と歌われ、参拝客が多いそうである。

参拝中、親切な人が近くにある西都原の古墳を見に行くよう教えてくれた。車で10分くらいのところにあった。

 広々とした古墳群で、約800基ある古墳が方々に見られた。ここにはニニギノミコトの陵といわれる「男狭穂塚」とサクヤヒメの陵といわれる「女狭穂塚」の古墳があり、陵墓参考地になっている。

 ここをあとに国道219号線、国道10号線を今日の宿「KKR宮崎ひむか」(宮崎市松山11219、TEL0985―27―1555、シングル、8,600円)に向った。大淀川に面した宿である。

 夕食に東国原英夫知事がテレビで推奨していた宮崎名物「冷汁」が出た。

 第四日目の走行キロ数は204kmである。



5月18日の巻

 今日も朝から五月晴れですがすがしい朝であった。6階の食堂で朝食は摂るが、窓から日豊本線が見え、鉄橋を渡る色とりどりの列車が見えた。

 朝食後、現在脚光を浴びている県庁まで散歩することにした。

 大変驚いたのは、県庁の門前歩道左側にテントを張った売店が数十軒出ていて、あたかも朝市をしているようであった。県庁への観光客が多く、昨日は約800人の人出とのことであった。その上、昨日は裏金の問題でマスコミの取材も多かったそうである。

 県庁の正面を入ると、東国原英夫知事の等身大のパネルが迎えてくれた。警備員や職員の方々は慣れているので親切で、知事室の場所まで教えてくれた。残念ながら今日は東京で全国知事会出席のため知事は不在であった。知事室の前で写真を撮った。朝早いのに数人の観光客が来ていた。

 県庁を出て、テントの売店を覗き見し、ホテルまで帰った。ホテルの前は大淀川に沿って堤防がありその前は橘公園になっている。宮崎を舞台の川端康成の「たまゆら文学碑」が建っていた。

 つづいて220号線(宮崎南バイパス)を通って青島に向った。

 巨人軍が宮崎キャンプ時宿泊するホテルの前やこどもの国遊園地前を通過して進むと、「最後の駐車場」との看板を掲げた土産物屋青島藤井商店の案内人がいた。聞くと買い物3000円以上で駐車代金500円は無料というので、店の裏にある駐車場に車を止めた。

 青島参道商店街の中を少し歩き、島へは弥生橋を渡って行くが、橋の手前に若山牧水の歌碑「檳榔樹の 古樹を想へ その葉陰 海見て石に 似る男をも」がある。

干潮時には島の周囲に「鬼の洗濯板」(約2000万年前、海中に出来た水成岩が隆起して出来たもの)と呼ばれる破状岩が見られ、干潮時には歩いて渡れる。

 青島は周囲約1.5kmの小さな島である。遊歩道があり、約20分で一周できる。

 弥生橋を渡ったところに、「特別天然記念物の亜熱帯性植物群・天然記念物の隆起海床と奇形波蝕痕」の石碑が立っている。

 ここから神社の鳥居まで数十mの参道にテントを張った土産物屋が2軒出ていた。風景をだいなしにしている。

 鳥居を入り少し進むと朱塗の鮮やかな神殿が見えた。青島神社である。

 神社の祭神は山幸彦(ホホデミノミコト)・豊玉姫・塩筒大神である。山幸彦が海宮(竜宮)から帰った時の居住の跡として三神を祀ったと伝えられている。初めて祀った年代ははっきりしないが、1500年頃(文亀年間)以降は藩主伊東家の崇敬が厚く、社殿の改築や境内の保護に万全を尽くし、明治以降は国内絶無の熱帯植物繁茂の境内を訪ねる人が多く、縁結び・安産・航海安全の神として崇められている。

 昔から霊地として一般の入島は許されず、藩の島奉行と神職だけが常に入島し、一般は旧3月16日の島開祭から3月末日の島止祭まで入島は許されていたが、1737年(元文2年)当時の宮司長友肥後が一般の参拝者にも入島が許されるよう藩主にお願いして許可され、以後入島が自由になった。昔から聖域として保護されたので、植物・岩石が自然のままに残り、1921年(大正10年)3月に植物が、1934年(昭和9年)5月に岩石が、天然記念物になった。

 参道の右側に「玉の井」(ホホデミノミコトと豊玉姫との出会いのきっかけになった井戸)という祠があるが、これは海宮(竜宮)の入口にあったとされる井戸のことである。この井戸は塩分は含まれないのに、山頂には塩水が湧き出る場所があるといわれている。

 この青島神社では丁度結婚式が始まるというので、参道には参拝客と関係者がいた。新婦は神主の資格を取った初めての女性とのことである。二人が神殿に向って参道を歩いて来て神殿に入った。

 神殿の横で珍しい「ひな」を売っていた。1770年間(安永年間)からの縁結びの「夫婦びな」・「願掛けびな」の「神びな」である。これは「男びな」は下膨れの顔に金鳥帽子、「女びな」は瓜実顔に振分髪で、両方とも赤の格子高縞の衣に金の帯をした二体一緒のお守である。

 神殿の右横に門があり、中に入るとピロー樹の林があった。これは全島を殆ど覆って繁茂し、その数5千本である。最高樹齢は約300年と推定されている。春開花し実は晩秋に熟して落ち翌春発芽する。ピロー樹の成因には、漂着帰化植物説と、昔日本に繁茂した高温に適した植物が、風土に恵まれず今日に残存したという遺存説がある。

その門の横に絵馬の掛けるところがあるが、巨人軍の選手全員の絵馬と東国原英夫知事の額縁に入った絵馬が掛けられている。

絵馬の横前に御神木「柞(ユス)」(マンサク科イスノキ属)がある。これは「結寿の木」とも呼ばれ、宮崎県を中心とする日本南部地方にのみ自生する大木で、堅く粘りがあり淡い褐色で温かみのある木肌をしている。その枝葉は古くから榊の代わりとして神社祭祀に用いられている。また、病魔退散・不老長寿など効用があるという伝説を残している。1974年(昭和49年)の青島大火の際に木肌を焼いたが、今なお木の勢いは衰えていない。

 神社の前に次の御神詠の歌碑が立っている。

 「赤玉は緒さへ光れど白玉の君がよそひし尊とくありける」

 「沖津鳥鴨就く島に我が寝ねし妹は忘れじ世のことごとに」

 この歌の意味は(皇子を生み置いて海底国に帰った妻の豊玉姫命が、夫の山幸彦(ホホデミノミコト)への思慕の情に堪えかねて、「赤い玉は緒まで光るが、それにもまして白玉のような君のお姿は尊いことです」と歌ったのに対して、山幸彦は答えて「水鳥の鴨が寄り就く島で、生活をしたそなたのことは忘れまい、私の生きているかぎり」)ということである。

 また、鳥居の左側奥に、御神木「雀榕(アコウ)」(クワ科イチジク属)が立っている。これは台湾や亜熱帯地方に分布する常緑高木樹である。その形から霊験あらたかとされている。僅か1cmほどの種が黒潮に乗って漂着し、巨樹になった。アコウの幹はそれぞれの小さな幹が根をおろしている。それぞれが別々の樹として機能しながら、協同して大きな幹を形成し、枝を広げている。家族一人ひとりが一生懸命に働き、家族・社会・国家を支えるという想いが、別名「親孝行の木」といわれている。

境内には日向神話館があったが入らなかった。

 洗濯板のところを歩きながら、洗濯岩の不思議さを実感し、記念撮影を撮った。

 帰りに土産屋に寄り、今脚光の宮崎名物の地鶏のパックなど買った。

 ここをあとに、宮崎神宮に向った。

 途中、「山椒茶屋」でそば定食など昼食を摂った。

 宮崎神宮の駐車場に車を止めたところの横には、車の祈祷場があり、その近くでチャボが遊んでいた。

 社務所の横より参道に入れるようになっていて、入ったところ左側に新緑の木々に囲まれて鳥居があった。広々とした参道が続く神殿近くで、結婚式がすんだばかりの新婚さんが写真を撮っている。めずらしくここでも新婚さんを見ることが出来た。神殿前は広くなっていて、大正天皇・昭和天皇など皇族の方々のお手植えの木々が茂っている。特に昭和天皇は6度参拝している。

 宮崎神宮の祭神は神武天皇である。拝殿の額には「神武天皇」の扁額が掛けられている。約26万uの森の中にあり、神武天皇が東征以前に都を置いた地とされ、古くは神武天皇社と称していた。創建は不詳であるが、改築が重ねられ、現在の神殿は1907年(明治40年)に作られている。神殿は狭野神社の境内にある狭野杉が伐採されて用いられている。

1885年(明治18年)官幣大社、1923年(大正12年)宮崎神宮になっている。

 ここをあとに、シーガイヤ近くの江田神社に向った。

 江田神社の駐車場のところに、無料で説明するボランティアの案内所が在ったが、案内中であった。

 車を止めた前にユニークな色つきの石造「みそぎの碑」があったが、イザナギ、アマテラス、ツキヨミ、スサノオをデザインしたものである。

 しばらくすると案内人が帰ってきたので案内を求めた。案内人の名前は徳末道氏である。

 最初に鳥居の前に作られている、日向神話「神々の系図」の前でイザナギ・イザナミから神武天皇に至るまでの関係について説明があった。特に参考になったのは、神代初代夫婦は都萬神社、二代夫婦は青島神社、三代夫婦は鵜戸神宮に祀られていることである。鹿児島県ではこれとは異なっていて、初代は霧島神宮、二代は鹿児島神宮、三代は鵜戸神宮になっている。

 江田神社の祭神はイザナギ・イザナミで創立不詳である。837年(承和4年)8月官社、851年(仁寿元年)従四位下、859年(貞観元年)従四位上、になり、その後、970年(天禄元年)までに正一位に昇格している。また、延喜式内社日向四座の一つとして神明帳に登載されている。1662年(寛文2年)大地震、津波が発生した頃から、神運が傾き、一産土神のようになったといわれた。即ち、上代における中ッ瀬と称す御池本社を去ること約5丁の東北に現存した後、世人が入江を開墾して江田と称し、産神様と称して今日に至っている。この地は「日向の橘の小戸の阿波岐原」としてイザナギの禊祓の霊跡と伝承され、禊の際三神(アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)の降誕の地である。

 837年(承和4年)8月官社、1873年(明治6年)5月25日縣社になり今日に至っている。

 本殿で参拝、「御神籖」(おみくじ)を購入した。

 参道を本殿に向って行く途中に大きな楠木があり、霊力のある木といわれ、手で触ると霊験あらかたということである。また、おがたまの木も植えてあった。本殿で参拝後、イザナギの「みそぎ池」に案内してもらった。途中、本殿の裏側に個人の方が「みそぎ御殿」を建てられている。

 この御殿は、個人の伊藤ヨ子女史に天啓を賜って造られている。

 1959年(昭和34年)11月15日から12月9日に亘り、大神の御神霊は「阿波岐原みそぎ御殿を建つべし」との神託と御殿造営現地に誘導があった。これが神名ならびに御殿のはじまりとなり、1965年(昭和40年)2月15日天府の宮みそぎ御殿は奉建された。また、「御殿造営なりしときは伊勢神宮に迎えに来い」と神託があり、1966年(昭和41年)3月12日伊勢神宮において厳かに神事奉楽あり御神霊を拝受、祀ってある。この神代霊跡の地に創建された社は「天つ神、国つ神をはじめ全国の神々が集うところ」ともいわれている。御殿造営にあたり、天照大神の御神霊が、次の神詠を授けた。

 御殿造営前(1963年(昭和38年)10月4日)

 「阿波岐原 ゆるぎなき世の 礎を 心みそぎて 岩戸開かむ」

 「閉ずとも かたき岩戸や 開かむ ただきわみなる 人の真心」

 御殿造営後(1966年(昭和41年)1月22日)

 「夜あり 鳥高らかに 時つげぬ 岩戸開くは 暁の神」

 いろいろ石碑、石柱が建てられている。

 また、神社拝殿の横に、掟として、「御参拝は四礼八拍手四礼を捧げる」との木札があった。

 みそぎ御殿を通り、林の中の小道を奥へ進んで行くと市民の森と名付けられた憩いの場があり、睡蓮の花に覆われた「みそぎ池」があった。イザナギがみそぎをした池といわれている。側に「御池」と書かれた大きな碑が建てられている。

 記紀では、イザナギ・イザナミが国土と神々を生み終わって、最後の火の神を生んだとき、大火傷でイザナミが亡くなったので、イザナギが黄泉の国まで会いにきたが、イザナミは醜い姿を見るなという約束をした。イザナギは約束を破ったため、蛆虫の湧いた姿のイザナミが追ってきた。黄泉の国から必死に逃げ帰ったイザナギは、その穢れを祓うために、この阿波岐原の池で「禊祓(ミソギハラエ)」をした。イザナギが禊をして穢れを祓っている最中、左目を洗った時に生まれたのがアマテラスオオミカミで、右目を洗った時に生まれたのがツキヨミノミコトで、鼻を洗った時に生まれたのがスサノオノミコトである。

 この池前に説明の看板があり、ここで案内人により、みそぎ池の説明を受け、その上、祝詞を詠じてもらった。

 「掛けまくも畏き伊邪那岐大神筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸大神等緒緒の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし食せと恐み恐みも申す」(かけまくも かしこき いざなぎのおおかみ つくしのひむかのたちばなの おどのあはきはらにみそぎはらへたまひし ときになりませる はらへどのおおかみたち もろもろのまがごと つみ けがれあらむをば はらへたまひきよめたまへと まおすことを きこしめせと かしこみかしこみもまおす) 

 一通り説明を受け、元きた道を引き返し案内所へ向った。途中、霊力のある楠に全員手をかざしながら記念撮影を撮り案内人に礼をいって別れた。

 ここを最後にシーガイヤの近辺をドライブして、宮崎空港に向った。途中ガソリンを満タンにし、レンタカーを返却、宮崎空港に着いた。第五日目のキロ数は60kmで、全五日間の総走行キロ数は874kmのドライブである。五日間一人で安全運転したD氏に感謝する。

 空港では、到着の飛行機が遅れているので、出発が遅れた。時間があったので喫茶店で反省会をした。30分遅れて、6時過ぎに出発した。飛行機はANA508便である。宮崎の空は曇っていたが、大阪では、大阪城や通天閣が夕闇の中に見下ろせ、無事伊丹空港に7時過ぎに着いた。



おわりに

念願の神代三陵および周辺の観光地めぐりを訪ねる旅は事故も起こらず無事終わった。

旅の途中、いろいろな方々の温かみを受け、我々も満足して旅を終わることが出来た。

特に、寿福酒造の寿福さんの人情味あるおもてなし、高屋山上陵管理人の山本さんの資料を用いた説明、ご自分の家の中まで案内してくれた美々津伝建地区の佐藤さん、みそぎ御池で祝詞を詠じてくれた江田神社の徳さん、心こもる折り紙の箸入れをくれた軽食堂の女主人さんなど、一期一会の出会いではあるが、大変親切にしていただき、我々の旅を、終生忘れえぬ思い出にしていただいた。

また、知覧の映画が出発前に公開になった時に知覧を訪問していた事、青島神社と宮崎神宮では二回も結婚式の新郎新婦が写真を撮っている場面に居合わせた事、今話題の宮崎県知事の県庁を訪問した事、旅行中は人吉や通潤橋で一時的な雨に降られた以外は天候に恵まれた事、高千穂神社では巫女さんと写真が撮れた事、都萬神社では神社が閉まる時、開けてもらった事など、タイミングよく好運もあった。

資料としてはJTBの観光旅行雑誌、梅原猛著「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」、山川出版社の歴史書、江原啓之著「江原啓之神紀行」などを参考にした。

人生を振り返ってみる時、思い出の一頁となることを期待して筆を置く。

風薫る 神代三陵 訪ね来て
                   神話のさとの 伝説楽しむ

2007年(平成19年)5月吉日 A・S

付 記
 この度旅行した5人は、定年後の企業OBが、第二の人生の生きがいをよくする集まりである「JASSくらぶ」を通じて知り合った仲間達。
 それぞれには、「JASSくらぶ」に多くの仲間がいるが、この5人は、歴代124の天皇御陵参拝を共にした。

 D・Sは、探訪旅行の企画をすると共に、874kmの全行程を一人で運転した。
 A・Sは、この紀行文を二日で仕上げた。京都検定の3・2級の合格者。
 F・Tは、海外旅行に明け暮れるが、間隙を縫っての参加。
 紅一点のM・Aは、写真の腕前は確か。また、御陵についてはA・Sも脱帽する知識の持ち主。
 S・Tは、「山の辺の道 散策ガイド」「飛鳥 散策ガイド」などのHP作成実績から、このHP作成を担当した。
 
 事前の打合せや、反省会と共に、この旅行は生涯忘れられない思い出深いものとなった。
 HP作成にあたり、写真は5人合わせて4000枚もあり、選別にうれしい悲鳴を上げた。
       2007年(平成19年)5月吉日 S・T