仏像 天部
天部
金毘羅
四天王
韋駄天
閻魔王天
十二天
(十王)
十二神将
四天王
毘沙門天
兜跋毘沙門天像
大黒天
歓喜天
乾闥婆
迦楼羅
訶梨帝母
吉祥天
伎芸天
緊那羅
広目天
金剛力士
聖天
持国天
執金剛神
深沙大将
善弐師童子
増長天
多聞天
帝釈天
八部衆
二十八部衆
風神
弁財天
梵天
摩睺羅伽
夜叉
雷神
竜
阿修羅
天
伊舍那天
火天
月天
水天
地天
日天
風天
魔醯首羅天
摩利支天
羅刹天
僧形八幡神
矜羯羅童子
天部 |
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もとは古代インドの神様たち。仏教に帰依して、仏法と仏教の信者を守る。また、福をさずける存在である。男女の区別があり、 さまざまな特徴を持った神様がいる。 ------------- 天と名がつけられている仏教の仏たちはすべてバラモン教(後のヒンヅウ教)やその他の宗教の神々が、そのまま取り入れられて信仰されたものばかりである。 バラモン教とこれらの神々の結びつきは古く西紀前の原始仏教時代からだった。これらの諸神は経典のなかでは釈迦の説法を聞いて教化され仏法を擁護することを誓った神々として説かれている。 その神々は古代宗教の自然神であるため、夫々に具体的な神格をもったものとして考えられている。インドに仏教が興ってその教えを広めようとする場合、これらの神々を無視することができなかったのである。 仏教はバラモン教に対して極めて寛容な態度をとり、バラモン教の神々は仏教の世界を守る守護神として扱いインド人の関心を引き付けることに成功したのである。 天部について⇒ |
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金毘羅(こんぴら) |
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十二神将中の宮毘羅のことで、仏法守護の夜叉神将の上首として独立信仰されている。武装忿怒身だが持ち物は定まらない。 インド王舎城の守護善神、転じて我国香川県松尾寺の守護神となり、現に金刀比羅宮の御神体として祀られる。 |
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毘沙門天 |
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びしゃもんてん。右手に宝棒、左手に宝塔を持ち、座具の上にすわる。北方を守る。 | |||
四天王のうち、北方を護る多聞天が単独で祀られる時の名が毘沙門天である。もとは、ヒンドウ教の財宝クベーラで、財宝や福徳をつかさどる一面ももっている。 仏法護持、怨敵調伏(おんてきちょうぶく)の霊験を有し、都城や寺院を守る。福徳富貴の七福神にも数えられる。 妻とされる吉祥天と、子の善膩師童子(ぜんにし)を伴い、三尊として造像される場合もある。甲冑をつけて宝塔を捧げ持つか、腰に手をあて、岩座が邪鬼の上に立つ姿が一般的である。 平安時代には、とくに東北地方で多く造られた。護国或いは戦勝神として、上杉謙信をはじめ武士の信仰も盛んであったが、室町時代頃から七福神の1神ともなった。密教では十二天の一つに数えられている。 兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてん)は毘沙門天の異形像で、地天が両腕で毘沙門天を捧げ、尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)の2邪鬼を従える。なかには、唐から請来された教王護国寺像のように、異国風の外套のような甲冑をつけるものもある。 |
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鞍馬寺の毘沙門天立像(国宝)は右手で戟(げき・枝刃付き桙・ほこ)を立て、左手を額にかざして遠くを望み異色である。左脇に妃の吉祥天、右脇に5子の一人善膩師童子を従えた三尊像だが、中尊の仕草が人間っぽい。中尊の毘沙門天が手をかざすのが山上から帝都を偵察する所作といわれる。 | |||
兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてん) |
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毘沙門天の一異形として兜跋毘沙門天がある。これは西域兜跋国に化現したと伝えられる毘沙門天で、その形像が一般のものと異なるので特筆される。 左手に宝塔、右手に宝棒或いは戟を把り、地天及び二鬼(尼藍婆・毘藍婆)の上に直立する。胴部には緊窄(きんさ)した鎧を着用し、三面立の宝冠を帯びる。 王城鎮護の目的のために城門に案ぜられる事が多く、京都教王護国寺像は、もと羅城門上に案ぜられたと伝えられる。 |
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大黒天 |
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ヒンドゥー教のシヴァ神の変化神で、戦闘をつかさどる神であったが、仏教に取り入れられてからは、そのほかに財福神として、また厨房を護る神という性格ももつようになった。 日本には最澄が伝え、古くは戦闘神として信仰されたが、鎌倉時代になって大国主命と結びつき、やがて庶民信仰の七福神の一つに数えられるようになった。 大黒天といえば、打出の小槌を持ち、袋を背負い、米俵に乗ったにこやかな像であるが、大黒天がこの像容になったのは、鎌倉時代以降のこと。日本に現存する平安時代の大黒天像には、甲冑をつけた武装像で岩座に坐る坐像とと、袋をかつぐ袍衣(ほうえ)姿の立像の2タイプがみられる。ほかに異形像として室町時代以降に造られるようになった。毘沙門天、大黒天、弁財天の3面をあわせもつ縁起のいい福神、三面大黒天がある。 |
興福寺 仮金堂特別公開ポスターより |
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韋駄天(いだてん) |
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塞建陀(すかんだ)建陀(けんだ)とも呼ばれる。身に甲冑を着け合掌した腕の上に宝剣を横たえるものが多いが、作品として古いものは殆どない。一説に湿婆神の子と伝えられ、天軍の将で走力が優れ速やかに邪神を消除するという。 釈迦涅槃の折、遺法護持にあたったという。禅宗寺院の厨房に安置されることが多い。 泉涌寺像が有名である。 |
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韋駄天神ハ、ヒンドゥー教の神・スカンダが仏教に取り入れられ、道教の韋将軍とも習合し、現在のものとなった。お釈迦さまのために俊足を生かし食べ物を集めたことから、生まれた言葉が御馳走。また、お釈迦さまの遺骨を奪った鬼を追いかけ、取り戻した逸話から、速く走ることを韋駄天走りと呼ぶ。こうしたことから、韋駄天神は盗難除けや身体健全、無病息災、小児の魔除けへのご利益を願う神とされ、古来、人々から信仰されてきた。 | |||
閻魔王天・焔摩天 |
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えんまてん。南方を守ろ。地獄の閻魔王のことだが、密教では慈悲相で表す。 | |||
十王では閻魔王(閻羅王)、平等王などといわれている。焔摩天は冥界或いは死者の王で、地獄の王として十王の中心的役割をなしている。 住居は須弥山の四洲のうち南閻浄洲の西に鉄囲山があり、その外側に地獄の世界があるとされ、焔摩天は十八人の獄卆を率いて、地獄に落ちてくる多くの罪人を審判し、夫々に罰を加えて不善行を止めることから遮止王ともいわれる。 獄は奈落ともいわれ、おのれの悪行によって死者が責苦を受けると信じられている地下の牢獄世界を一般に地獄であると称している。 仏教では特に地獄の称相が述べられていて、八熱地獄、八寒地獄があり、夫々に十六遊増地獄があって、酷熱、極寒、飢餓、渴、剣樹、鉄釘、膿血、沸屎、石磨などの恐怖の場所として、平安時代に絵巻物や屏風などに描かれている。 近代の仏教では地獄は六道から脱する道でであるといっている。 密教では十二天中の一天として護法神の役割を果たす。 像は二臂でその手に人頭幢を持ち牛に乗る姿のものが多い。 独立に修せられる焔摩天は延命除災、又冥福を修する冥道供は焔摩天曼荼羅をかけ行う。 |
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サンスクリットやパーリ語の「ヤマ」の音訳で、インド神話では人間で最初の死者とされ、死者の世界の王と考えられるようになった。その後、中国で道教や仏教と混交し、十王信仰と結び付き、冥界の裁判官と位置づけられるようになった。 | |||
仏教では、死後7日目から7日ごとに7回、生前の行いに対して裁きをを受けるのだが、中でも来世の行き先が決まる閻魔大王による5回目の裁きが重要とされる。 | |||
ゑんま様は恐ろしいお顔から地獄の支配者のように思われているが、実は人間世界を司る仏。死者をあの世のどこへ送るかを決める裁判長の役目を担っているゑんま様は、人間を三悪道に行かせたくないために、怒りの表情で地獄の恐ろしさを語り、嘘つきは舌を抜くと説いている。 | |||
焔摩天眷属 太山府君(たいざんふくん・泰山府君)胎蔵界曼荼羅外金剛部南方中。 中国では名山泰山と結び付けられ神格化された。像は右手に巻物を披き書写の勢い、 左手は壇挐杖を持つ。 五道大神(ごどうだいじん) 地獄、飢餓、畜生、人、天の五道の冥宮の総称。形像はよく定まらない。 司命・司録(しみょう・しろく) 夫々冥宮の一つで、忿怒形を呈し、身に官服をまとい、前者は右手に筆、左手に書巻、 後者は書巻を披いて読む様。(千本閻魔堂では逆) 白毫寺像が著名。 荼吉尼天(だきにてん) 人の心の垢を食い尽す神として鬼神形で胎蔵界曼荼羅外院南方の焔摩天お傍に四天衆として侍坐する。 また大黒天の眷属夜叉ともいわれる。 像容は人血骨肉の如きものを喰う態をなす。 後世のものには狐の背に跨る三面二臂で剣と宝珠を持つ姿に描かれる。 遮文荼(しゃもんだ) 胎蔵界曼荼羅外院西方に位し猪頭人身にして宝冠を頂き手に杼を持つ姿をとる。 |
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十王 |
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秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宋帝王(そうていおう)、五官王(ごかんおう)、閻魔王、変成王(へんせいおう)、太山王(たいざんおう)、平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんおう)、冥界にあって亡者の罪業を裁断する十人の主である。 その成立は唐末五代頃で、その思想はきわめて中国的道教的である我が国に於いても平安時代後期頃より、その信仰が盛んになり鎌倉時代を通じて思想的にも作品的にも充実した。多くは笏をもち道服を着た忿怒尊である。また十王の前に立って罪業を問われる亡者の姿を呵責なく描きだした十王図も鎌倉時代以後少なくなる。 |
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十二神将 |
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薬師如来の眷属として薬師如来の浄土、衆生を護る十二の夜叉。経典には更に各々7千の眷属を従えて護法の任に当たると説かれる。 子・丑・寅等十二支の動物形を夫々冠に戴く表現は概して鎌倉時代以降のものに多く見られ、十二の時間及び方位の呼称に結びついた後世の思想に基くものと考えられる。 衆生を救う薬師の十二大願にちなんだ神ともいわれる。平安後期ごろから十二支と習合して頭に干支(えと)の像を頂く姿が普及、興福寺にも干支月付十二神将像(国宝)が東金堂に立ち並んでいる。 名前は梵字を漢字化したもの。漢字の当て方や読み順番も一定していない。興福寺国宝館の陳列様式で列記すると、毘羯羅(びから)、招杜羅(しょうとら)、真達羅(しんだら)、摩虎羅(もごら)、波夷羅(はいら)、因達羅(いんだら)、珊底羅(さんていら)、頞儞羅(あにら)、安底羅(あんていら)、迷企羅(めきら)、伐折羅(ばさら)、宮毘羅(くびら)、の各大将。いずれも武将や衛士の姿で身構えている。 |
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歓喜天 |
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聖天⇒⇒⇒ | |||
乾闥婆 |
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正しくは栴檀(せんだん)乾闥婆、また食香(じきこう)ともいう。本来は音楽の神として楽器を奏し、八部衆の一つに加えられる。密教では小児に危害を加える十五鬼神を縛して胎児や小児の無病息災を護る役目をしている。 像は二臂の武装天部形で獅子冠を着ける。持物に三叉戟を持つのが多い。 |
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迦楼羅 |
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仏教の想像上の鳥。須弥山世界の四天を翔けり、龍を取って食とする。翼は金色、頭には如意珠があり、常に口から火焔を吐く。その大きさ三百余里という。迦楼羅炎は不動明王の光背の名称。 2017-5-26 朝日新聞 「八部衆と 言えば阿修羅が一番人気ですが、迦楼羅ファンも多い」 なりました。 迦楼羅は鶏頭を持つ半獣半人像です。瞳は黒く、緊張した面持ちです。イ ンド神話に出てくる巨鳥(サンスクリット語で「ガルダ」)に由来す るといい、「竜を常食とする。 一方で、まるでスカーフを巻いたような姿には「おしゃれ」という声もあるとか。強さと愛らしさが人気の秘密のようです。(佐藤圭司) |
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興福寺 迦楼羅 奈良世界遺産フリーキップポスターより |
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訶梨帝母(かりていも) |
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鬼子母神(きしもじん)、歓喜母、愛子母(あいしも)の異名を持つ。もともと幼児を捕えて食う悪女鬼であったが、後にわが子を奪われ、改心して幼児を庇護する善神となった。仏法守護の善神として尊崇される。 像容は天女形であるが時に鬼神形を示すものもあり、前者にあっては諸児を抱き従えるのを常とする。童子の数は三子、五子、七子、九子等様々である。鬼子母神は十羅刹女と共に法華経護持の神として説かれ、善賢十羅刹女像と一緒に描かれることがある。 代表作としては園城寺の彫像と醍醐寺の画像が有名。 |
粉河寺、西国三十三所 めぐりポスターより |
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お釈迦様が、彼女の一番かわいいがっている末子を隠して子を失う母の悲しみにくれている人たちに子供を授けて生きる喜びを与えるようになった。 | |||
吉祥天 |
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梵名を摩訶室利(まかしり)といい、また功徳天ともいわれる。インド古代神話中のラクシーのことで、徳叉迦(とくしゃか)竜王と鬼子母神の間に生まれた子であり兄が毘沙門天とも、また毘沙門天の妃であったこともいろいろの説がある。 毘沙門天の左脇侍としても作られ、福徳を司る女神として恭敬されている。それらの像容は多くは唐代の貴婦人の姿に擬して作られその形は 1、右手を施無畏印に、左手は如意宝珠を持つ(薬師寺像) 2、右手を施願手に作る場合もある(浄瑠璃寺像) 3、蓮華を把る また多聞天(毘沙門天)の妃として一対に作られた例としては法隆寺の像が古い。また善弐師童子と共に毘沙門天の両脇侍として配されることが多い。 |
興福寺 仮金堂特別公開ポスターより |
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伎芸天(秋篠寺) |
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【頭部】奈良時代末期 脱活乾漆造 【体部】鎌倉時代 木造彩色 像高 二〇四・五cm |
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伎芸天が本来の尊名であったか否かは定かではないが、美しく静かに動くしな |
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緊那羅 |
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広目天 |
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金剛力士 |
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寺院の入口や門の左右に、恐い顔をして立つ。伽藍(がらん)を外敵から護るため入口に安置される。 二神で対となり、左を密迹金剛といい、右を那羅延(ならえん)金剛という。前者は口を開き阿形像、後者は口を閉じ吽形像、仁王とも呼ばれる。 如来の一切の秘密事迹をしり、五百の夜叉神を使役し仏法を守護する二神。 筋肉隆々として血管を浮き立たせた上半身裸腰部だけに衣裳を纏い、勇猛の相をなす像であるが、古い時代には甲冑をつけた神将形が主流で、祀られるのも堂内であった。 金剛力士像が門の左右に立つのは、「金剛とは智である。この智は煩悩を摧破すると譬えば金剛の剛力を以て諸物を摧破するに等しい。実相の門を開発するに智慧をもってするが故にまず門に金剛を立て、内に仏身を置く。仏身とは本来自性の理である。智を以て照らし顕現することを得る」からである。 東大寺金剛力士について(南大門) 渾身の力を込めた下唇に激しく隆起した眉間。まなじりを高く吊り上げ、顔面の筋肉が鼻先に向かって集中する忿怒相。瞼を下向きにすることで下から見上げたときの迫力が強調されている。胸の筋肉は大きく盛り上がり、脈打つように迫る。阿形が首筋や胸の筋肉などを細かく、丁寧に刻みこむのに対し、吽形は胸部や腹部の量感、筋肉の立体感を際立たせている。運慶は吽形の腹部、胸部を大きく見せるため、へその位置を下にずらし、乳首を外側に移した。血管や髪の一本一本まで細かく表現されている阿形。右手に金剛杵(こんごうしょ)を持ち、5本の指を大きく開いた迫力の左手には細かなしわまでが緻密に刻まれている。一気に吐き出した空気を表現するかのように浮き立つ血管が彫られた左足。吽形は踏み出した右足の先を反らせているが、阿形ではしっかりと大地を踏みしめている。 その他独尊として、金剛杵(こんごうしょ)を持ち、仏法を守護する執金剛神(しゆこんごうしん)がある。 執金剛神と神将形の金剛力士は数が少ないが、東大寺法華堂(三月堂)に安置されている。 東大寺南大門⇒ |
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聖天(しょうてん)歓喜天(かんぎてん) |
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大聖歓喜天、歓喜天または誐那鉢底(がなばち)などと呼ばれる。インド古代神話の中でガナバチ、ガネシャといわれ魔性の集団たる毗那夜迦天(びなやかてん)の王として表れる。仏道修行の誘惑者として出現し、悪逆を働くが後に仏教に入って魔障を排除するシンボルとして働く。 |
かんぎてん くわん— 3【歓喜天】〔梵 Nandikeśvara大聖歓喜自在天の略〕 仏教守護神の一。もとはヒンズー教の神であったがのち仏教に帰依。人身象頭で,二天が抱擁しあう像が多い。除災・富貴・夫婦和合・子宝の功徳ある神として民間信仰が盛ん。大聖歓喜天。聖天。大辞林 第三版 |
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象の頭をもつ魔王と観音の化身が抱擁する像で、ほとんどが秘仏。奈良・宝山寺(生駒聖天)像等が知られ、夫婦愛や子宝祈願、商売繁盛などの信仰をあつめている。 | |||
持国天 |
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執金剛神(しゅこんごうしん) |
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東大寺の執金剛神。1300年前の仏像。 天平仏の宝庫、東大寺法華堂の中でも執金剛神立像は秘仏として格別に大切にされてきた。損傷や補修された箇所は少なく、造像時に近い状態を保っている。 執金剛神は須弥壇北側におかれた厨子に北を向いて安置されている。厨子が開くのは年1回、東大寺初代別当、良弁僧正の命日の12月16日だけである。 塑像で、像高170cm、甲(よろい)に身を固め、右手は武器形の法具、長さ78cmの金剛杵(こんごうしょ)を振り上げ、左手は血管が浮き上がるほど力をこめて拳を握る。目はかっと見開き、歯をむき出して怒号し、今にも金剛杵を振り下ろす勢いである。唇や口の中の朱色や緑青など彩色が鮮やかに残る。宝相華文(ほうそうげもん)など華麗な文様も見え、極彩色の当初の姿をしのばせる。 執金剛神は金剛杵を執って仏法を守る善神。外敵の侵入を防ぎ、打ち砕く。この像はわが国最古の仏教説話集「日本霊異記(りょういき・9世紀初め)」に登場する。「東大寺ができる前、奈良の東山の山寺に金鷲優婆塞(こんじゅうばそく)という行者が住み、執金剛神の塑像の脚に縄を結んで引き、日夜、礼仏悔過(けか)していた。脚から光が放たれ、宮殿に達した。聖武天皇に召され、「出家して仏法を学びたい」と願うと許された」 説法ちはいえ、執金剛神が東大草創にかかわる重要な仏像であることがうかがえる。 2013-3-30 朝日新聞 日本霊異記にほんりょういき —りやういき 説話集。三巻。景戒編。822年頃成立。因果応報の仏教思想に基づいて,雄略天皇から嵯峨天皇の頃までの説話を漢文で著す。各段末に付する訓釈は,平安時代の国語資料として重要。正称,日本国現報善悪霊異記。霊異記。にほんれいいき。 大辞林 第三版 金剛力士⇒⇒⇒ |
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深沙大将 |
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明通寺の深沙大将(左)と降三世明王(右) | |||
善弐師童子 |
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増長天 |
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多聞天 |
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帝釈天 |
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たいしゃくてん。東方を守る。国宝十二天像(京都国立博物館蔵)の12幅の中で最も華やかな截金(きりかね)と色彩の美しさを見せる。 | |||
インドラというサンスクリット語の名前をもち帝釈天は、古代インド神話に登場する雷神をルーツとする。梵天とともに早い時代から仏教に取り入れられ、位の高い天部となった。梵天と一具をなし、「梵釈」として釈迦如来像の脇侍となる例が多く、また梵天とともに二十八部衆にも数えられている。 中国の貴族といった風の衣服を着て、沓をはく「貴顕(きけん)天部」で、やはり梵天と同様に服装などは一定していない。しかし、帝釈天は戦士の守護神ともいわれた戦闘神だったことから、甲冑をつけ武器である独鈷杵(とっこしょ)などもつ勇ましい姿で表わされることが多く、梵釈の片方だけが甲冑をつけていれば、そちらが帝釈天と考えてよい。平安時代に入ってきた密教像は、一面三目二臂で、てに金剛杵(こんごうしょ)を持ち、白象の上に坐し、片足を踏み下げている。密教では十二天の1つで、東方を護る。 |
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東寺講堂帝釈天について 講堂は境内の中心にある。嵯峨天皇から東寺を託された弘法大師空海が、唐で学んだ密教を伝え広めるための中心的な建物と位置づけ、承和2年(835)ごろ完成した。空海にとっての本堂は、金堂ではなく講堂であった。 文字や言葉で表現しきれないものが密教にはある。空海はそんな意味の言葉を残している。それを図画で示したのが曼荼羅である。空海はさらに講堂で立体化し、21体の仏像で曼荼羅を演出した。立体曼荼羅といい、いわば真言密教の3D化である。 大日如来を中心とした21体の尊像が埋め尽くす。壇上の四隅の四天王のうち、持国天は口を大きく開き武器を振りかざす。五大明王中心に座して剣を持つ不動明王は、火炎を背負って両目をむく。ひっそりと迎えてくれるのが帝釈天である。 元はインドからきたインドラ神.。鎧を身に着けた武人の姿で像にまたがる。鼻筋も通り、自分の内面と静かに向き合っているかのよう。 |
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八部衆 |
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釈迦に教化された異教の神々でその成立は古い。仏の眷属として仏法を守護するために再構成され仏を護持することになったものである。 | |||
部衆はインド神話に登場する神々で、仏教に帰依してその守護神となりました。 天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩?羅伽 |
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二十八部衆 |
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千手観音には侍者として二十八部衆の眷属を率いてる場合がある。 密迹金剛力士(みっしやく・みっせき)、金毘羅王(こんぴら)、五部淨(ごぶじょう)、帝釈天、神母天(じくも)、毘沙門天王、阿修羅、梵天、雷神、風神、乾闥婆王(けんだつばおう)、畢婆迦羅王(ひばからおう)、金色孔雀王(こんじきくじゃくおう)、摩喉羅迦王(もごらかおう)、緊那羅王(きんならおう)、満仙王(まんせん)、沙迦羅龍王(さからりゅう)、那羅延堅固王(ならえんけんご)、婆藪仙人(ばすうせんにん)、散指大将(さんし)、東方天(とうほう)、大弁功徳天(だいべんくどく)、満善車王(まんぜんしゃ)、迦楼羅王(かるら)、毘楼勒叉天王(びるろくしゃ)、摩醯首羅王(まけいしゅら)、金大王(きんだい)、毘楼博叉天王(びるばくしゃ)、摩和羅王(まわら)、竜神(りゅうじん)、 |
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風神 |
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火天などと共に成立は古い。 密教に入って十二天西北方及び両界曼荼羅の外院西北隅を占め風幢を把る老人形に描く。時に鹿に乗る。 |
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弁財天 |
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サラスバティーの河を神格化したもので(水や川を守るインドの神)、初めは土地豊饒の農業神として尊崇されたが、さらに智慧の神バーチと結合して言語や音楽の神に転じたも。日本では、学問や音楽、財宝、子孫繁栄などの神として信仰が広まった。 吉祥天と共に金光明経に説かれ古くから信仰を得たが、鎌倉時代以降は楽天として以外に弁財天と記して福徳神としてひろく尊崇された。七福神の一つにも加えられている。 像容は八臂(弓・箭・刀・斧・長杵・鉄輪・羂索を持つ)像であることが多い。後世のものは二臂で琵琶を手にするものや八臂で蛇頭人身の像などがある。 日本の三弁天は鎌倉の江の島弁天、琵琶湖の竹生島の弁天、安芸厳島の弁天をいい、池とか海や水辺に堂が建てられている。 興福寺三重塔の弁財天は八臂に剣や矢を握り、ふっくらした表情。また、頭部には鳥居や宇賀神を載せている。 鎌倉時代以降は、弁才天から弁財天とも書かれるようになった。 |
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梵天 |
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ぼんてん。上方を守る。国宝十二天像(京都国立博物館蔵)ではボリッュームのある絵具の使い方で迫力がある。 | |||
サンスクリット名はブラフマン。梵天はバラモン教やヒンドゥー教の宇宙の創造神をルーツにもち、数多い天部の中でも、高位に配されている。 古くから帝釈天と対で造られ、釈迦如来の脇侍として三尊形式で安置されることが多く、その場合「梵釈」とまとめてよぶ。単独で祀らられるれいはほとんどない。 一面二臂の人間と同じ姿で、髻(もとどり)を結い、中国風の衣服を着て立つ「貴顕天部」の代表である。像容や衣服に規定がなく、像によってかなり違いがあり、衣服の下に甲冑をつける作例もある。持物を持つ場合は柄香炉(えごうろ)、払子(ほっす)、巻子(かんす)などを持つ。 京都・東寺に代表される密教の梵天像は多面多臂で、数羽の鵞鳥(がちょう)座か、その上に載せた蓮華座に坐る。十二天の1つに数えられている仏である。 |
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摩睺羅伽 |
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夜叉 |
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薬叉とも書き、インドの神話では人を害する鬼類として生まれ、のち八部衆の一つに加えられて仏法護持の神となる。特定の鬼神をさすさすのではなく、一般的総称として呼ばれている。多聞天の拳属として護持にに当たっているともいわれ、また、諸鬼神十二を集めて薬師十二神将となったり、大般若十六善神ともなっている。 | |||
雷神 |
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竜王 |
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水中に住み雨を呼ぶ魔力があると信じられる架空の動物。釈迦の降誕の際、二竜王が虚空中より清浄水を灌いだと伝えられる。大海に住み須弥山のまわりに二竜王が住んでいるとされる。形像は人身蛇尾で頭上に三乃至九頭の冠する。 弘法大師が神泉苑で雨乞いを行った際に善女竜王が現れた。その姿は雲に乗る竜神の背に立つ唐の客人の姿に描かれている。 |
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阿修羅 |
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阿修羅は、古代インドの神話にでてくる、戦いを好む神様アスラであった。もともと仏教のものではなかった。 天の神様と戦った末に負けてしまい、心を改めて仏教を信じるようになった。そして、お釈迦様の教えを守る八部衆の8人の神様の一人になった。 |
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興福寺の阿修羅像は特に有名で、他の7人とともに国宝にしていされている。 作られたのは734年の奈良時代。お釈迦様を取り囲むようにして、他の多くの仏像とともに置かれている。 光明皇后が、自分の母親(橘三千代)が亡くなって1年後に、冥福を祈るため西金堂を建て、本尊・釈迦如来を守る八部衆の一体としてつくらせた。 興福寺は何度も火事になったが、阿修羅は焼けずに残った。高さ153cm、重量15kgという軽さで、坊さんが抱いて逃げられたことによるようである。 体重が軽いのは、木彫りではなく主に漆と粘土でできていて、中が空洞になっているため。これは、木などの骨組みに粘土をつけて形を作り、布を張り付けて漆を塗り、穴をあけて中の土を取り除く脱活乾漆造りという方法使っているため。 火災や地震、戦災などくぐりぬけたが、転倒などで6本ある腕のうち数本が損なわれた。 阿修羅像は一般的には戦闘的な神で憤怒の形相であるが、興福寺の阿修羅像は、 右側の顔は、唇をかんで何かを後悔している状態、左側の顔は悲しそうに見える。正面の顔は、眉をひそめながら何かを決心していると考える人もいる。 昔の自分を反省して、人々を救おうと心に決めたとも云われている。揺れ動く気持ちを一つの体で表している。 ―---------- 天平彫刻の傑作、天平6年(734)脱活乾漆造(だっかつかんしつつくり) |
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阿素洛王という名のインド神で、古くは呼吸の神とも非天の義とも解されたが、後に八部衆の一つとして、六道中阿修羅道の主として戦闘の神に擬せられる。徳に帝釈天との闘争がきわめて熾烈をきわめたことで有名である。 像容は二臂もあるが、多くは三面六臂で興福寺像では中央合掌の外、上方に二手、肩先に二手を配し、その持物は失われてなくなっている。 興福寺の像は少年のような、少女のような表情をたたえている。ところが、像の下から上に向けて光を当てると、眉根を潜めた険しい顔が浮かび上がるという。 阿修羅は天界の須弥山(しゅみせん)に住んでいた。が、天界から追われ、帝釈天に戦いを挑む。しかし負け続け、戦いを捨てて仏教に帰依した。阿修羅は仏法の守護神となる。興福寺の阿修羅は、帰依した姿と言う。 別の伝説では阿修羅は帝釈天を相手に勝てぬ戦いを永久に続けると言う。 |
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興福寺の像は少年のような、少女のような表情をたたえている。簡単に言えば、人々はまずそこにひかれた。 ところが、像の下から上に向けて光を当てると、眉根を潜めた険しい顔が浮かび上がる。写真家・小川光三さんが見つけた、もうひとつの表情だ。優しさ、危うさと怖さを内包する。 阿修羅を含む八部衆・十大弟子の製作を命じたのは、聖武天皇の妃、光明皇后だった。 2012-4-29 朝日新聞 より |
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天平彫刻の傑作、奈良·興福寺の国宝阿修羅像(734年)の3面ある顔のうち、下唇をかむ右側の顔が原型の段階では口を開き、やや穏やかな表情だったことが分かった。 X線CTスキャンの画像を解析した研究チームによると、完 成前に今の表情に変更したとみられる。 阿修羅像は正面と左右に顔があり、右の顔は少年が下唇をかんで、何かを悔しがっているようにみえる。 2009年に東京と福岡であった「国宝 阿修羅展」に合わせCT撮影。愛知県立芸術大の山崎隆之名誉教授(彫刻技法史)や奈良大の今津節生教授(保存科学)らの解析の結果,像の内側に残る原型の痕跡は下唇があり、口を少し開いていた。成形の段階で下唇の部分に木屎漆(こくそうるし・木粉と漆のペースト)を厚く盛り、上唇だけが残るようにしたらしい。正面と左の顔の原型も、現在と違ってやや眉をつり上げていた。 阿修羅像は、光明皇后が母の一周忌に建てた西金堂に安置。他の仏像ととも に、「将軍万福」という仏師が制作したと伝わる。「金鼓(こんく・金色の鐘)が鳴り響くと、仏たちは悟りに導かれるような思いになった」という経典の記述に基 づく群像とされる。 山崎さんは「原型の顔は、金鼓の音に集中した姿ではないか。一方、光明皇 后は西金堂完成の数年前、唯一の男の子で皇太子だった『基王』を亡くしてい る。その心情を、将軍万福が忖度して変更したのかもしれない」と推論する。 奈良·興福寺の国宝阿修羅像の三つの顔のうち、唇をかんでいる右側が原型段階では口を開いていたことがわかった。天平6(734)年に制作されてから13 00年間、多くの人々が目にしてきたものとは違う表情が、像の内側に眠っていた。それを明らかにしたのは、厚さ数mmという薄い粘土の層だった。 阿修羅像をCT撮影したのは2009年の「国宝阿修羅展」の際、福岡県太宰府市の九州国立博物館でのこと。全身をほぽ撮影し終えたところで,博物館科学課長の今津節生さん(現·奈良大教授)らの研究チームは「せっかくだから、お顔の部分だけは細密撮影をしておこう」と思い立った。その後、デタを解析すると、現在の表面の内側に砂粒が映っていることがわかった。薄く面のように広がっている。 阿修羅像は、木屎漆(こくそうるし・木粉と漆のペースト)で仕上げた後、その内側にあった原型の粘土をかき出してある。そのうえで、内部に漆を塗って補強しているがかき出し切れなかった原型がうっすらと残っていたのだ。それが、元の顔を復元する鍵になった。阿修羅はインドの戦闘の神で、一般的には悪鬼の形相に仕立てられる。しかし興福寺の像は、728年に1歳で病死した皇太子の面影考母の光明皇后(701~760)が残そうとしたともいわれ、独特の少年のような表情にされた。以前から、少年とも少女ともつかない端正な正面の顔が注目されていたが「国宝阿修羅展」で、像の背後や左右からも拝観できる展示が初めて試みられたことなどから、右や左の表情にも関心が集まるようになった。 軟らかい布や漆を用いる脱活乾漆の技法は奈良時代独特のもので、木や金属の像に比べると制作中に軌道修正しやすい利点がある。 仏像は造形の途中で修正を加えることも少なくない。高さ8mを超える木造の 東大寺仁王像( 13世紀)でもヘソや胸部を別材で造り、終盤に位置を変えている。興福寺には、阿修羅像のほか、同時に同じ技法で造られた八部衆像7体と十大弟子像の現存6体が伝わる。今津さんは「阿修羅像以外の細密撮影がまだ実現していないが、将来同様の研究が進められることに期待している」と語る。原型の顔を復元した愛知県立芸術大の山崎隆之名誉教授(彫刻技法史)は言う。「興福寺に隣り合う東大寺には、同じころの傑作,執金剛神像(国宝)な どが残る。これらもスキャンや解析ができれば、新たしゅこんごうじんぞうな発見があると思う」 |
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伊舍那天 |
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いしゃないてん。インドノのシバ神のことで、東北方を守る。国宝十二天像(京都国立博物館蔵)では優美な像に描かれている。 | |||
火天 |
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かてん。東南方を守っている。どことなくやさしい顔をしている。 | |||
月天 |
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がってん。月の神。十二天はもともと八方の守護神が基本で後に組み入れられた。 | |||
水天 |
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すいてん。西方を守っている。国宝十二天像(京都国立博物館蔵)では着衣が華やかで美しく描かれている。ふくよかであり、謎めいた気品を感じる。 | |||
梵名は縛嚕拏(ばるな)。印度神話時代、夜の神として天界に住していたが後に水神に転じた。水界或いは竜王の主として密教では十二天及び両界曼荼羅では西方の守護神となる。像は左手に竜索を執り、右手に剣をとって亀の背に乗ることが多い。 水天は水神として水禍の難を除く水天法の本尊として、また請雨の際に修される。 |
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地天 |
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じてん。大地を象徴する神で、梵天と対比される。下方を守っている。 | |||
日天 |
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にってん。太陽の神。月天と同じく。十二天には最後に取り入れられた。 | |||
風天 |
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ふうてん。西北方を守る。右手に風に翻る幢(どう)を持つ。国宝十二天像(京都国立博物館蔵)では顔は老相で描かれている。 | |||
魔醯首羅天 |
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摩利支天 |
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宇賀神 |
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穀物の神。転じて福の神とされ、弁才天と同一視され、天女形の像が多い。 | |||
羅刹天(らせつてん) |
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らせつてん。南方を守る。国宝十二天像(京都国立博物館蔵)では光背の火炎、脇侍の伏し目がちの表情が特徴。 | |||
梵天は浬哩帝王ともいう。羅刹天即ち悪鬼の主で十二天及び金・胎両部曼荼羅の外院に住する。右手に剣を持ち、左手を剣印(頭・中指を立て他は結び掌は外に向ける)に結ぶのが通形で獅子座に乗る。 |
四天王は須弥山(世界の真ん中にある)の四面即ち東西南北の四方四州(勝身州しょうしんしゅう・瞻部州せんぶしゅう・ 牛貸州ぎゅうかしゅう・倶盧州くろしゅう)に各々天を守るために配されて須弥山の中腹に住み、 天上に住む帝釈天に仕え、仏法に帰依する人を守護する護法神となっている。後世には仏教界の縮 図としての須弥戒壇或いは密教壇の四方を守る神として取り入れられている。 東方 時国天(提頭頼咤天だいずらたてん) 南方 増長天(毘桜勒叉天びるろくしゃてん) 西方 広目天(毘桜博叉天びるばくしゃてん) 北方 多聞天(毘沙門天びしゃもんてん) インドでは、神話時代から後世神として存在し、仏教本来の神でなくその表現にも規制がなかった ので貴人の姿に表現され、インドから中央アジアを経て中国に入る間に、次第に武人像となってい った。我国に入ってきてからは、原則として忿形著しい武装天部形として作られる。 古い像では、特徴として誇張の少ない直立した像で形式的な着衣となっている。 図像によると、四天王とも左手に戟を持ち、右手は広目天が筆、多聞天が塔を持つほかは剣を竪て 持っている。(法隆寺金堂の広目天は筆と巻子を持つ) 奈良時代以後の像は、表現が自由になり手足の動作も忿形著しくなる。持物は、広目天が筆と巻子、 多聞天が剣と塔を持つほかは、凡て剣を執る姿に作られる。 |
法隆寺・金堂、四天王は日本最古。物静かで、目をむいたり、眉をしかめたりしないで、ひたすら直立し、外敵を懲らしめる追い払う戦闘態勢の武神に見えない。法隆寺金堂の四天王も仏壇の四方に立ち、須弥壇の北東角から北の守護神多聞天、東の持国天、南の増長天、西の広目天と四隅を固めている。 |
十二天は、信者が仏縁を結んだり、高僧が弟子に奥義を伝えたりする灌頂の儀式の守護神でもある。 元々は十二天の仮面をかぶり、仮装したした12人がお練りをしていたが、やがて十二天の姿を描いた十二天屏風で代用するようになる。 |
迦楼羅(かるら)
鶏頭を持つ半獣半人像です。瞳 は黒く、緊張した面持ちです。イ ンド神話に出てくる巨鳥(サンス クリット語で「ガルダ」)に由来す るといい、竜を常食とする。 |
興福寺 迦楼羅 |
僧形八幡神
東大寺の僧形八幡宮 八幡宮は八幡大菩薩とも呼ばれる神仏混合の先駆的な神である。その代表的神様が東大寺の僧形八幡神坐像(そうぎょうはちまんしんざぞう)である。鎌倉時代の大仏師快慶が自ら施主となってノミを執った至極の秀作として知られる。 鎌倉初期に東大寺を復興した俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が、鎮守社の東大寺八幡宮(現手向山八幡宮)を再建、その神体として造立した。今は大仏殿西方の八幡殿に秘蔵。 八幡宮は大分県の宇佐神宮を本源とする国家鎮護、寺院鎮守、武門隆盛などの神で、京都南方に石清水八幡宮、鎌倉に鶴岡八幡宮が営まれた。主祭神は応神天皇。全国津々浦々に鎮座し、その数は4万を超えるとされる。 奈良時代に聖武天皇の大仏造立の成功を予告。神威を崇敬した天皇が宇佐から迎えたのが東大寺八幡宮である。その後奈良では大安寺、薬師寺、西大寺の勧請された。 この八幡神像には重源の執念が宿る。1180年の平重衡(しげひら)による兵火で焼けた八幡宮は17年後に重源が復興、その神体に京都・鳥羽の仏院にあった伝空海筆の八幡神画像を希望した。だが、画像は元所有の京都・神護寺に所属。これに立腹した重源がその画像を密かに写した彫像を快慶に造らせた。 この名像が明治の神仏分令に直撃された。幕末まで東大寺と一体だった八幡宮が独立したためである。僧形の八幡神は東大寺の所属となり、寺は聖武天皇を祭っていた社殿を八幡殿と改めて安置し、現在に至っている。 |
東大寺法華堂(三月堂)に安置されている。制作は南北朝時代の応永6年(1373)不動明王(高さ86.5cm)が従えている木造。 矜羯羅童子(高さ78cm)、制多迦童子(高さ88.7cm)。作者は、興福寺にいた仏師、円源坊ではないかと見られている。水晶 を目にはめ込んだ「玉眼」が少年らしい躍動する面持ちを見せる。 |
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八大童子立像のうち制多伽童子 金剛峯寺、運慶 国宝 |
十六羅漢
十六羅漢は、お釈迦様の高弟で、お釈迦様が入滅してから56億7000万年後に弥勒菩薩が 現れて人々を救済するまでの間、現世にとどまって仏法を守り、衆生を救うよう命じられ た尊者です。三明六通(三つの智慧と六種の神通力)があると言われ、五つの光明(「住 処と名号」「興隆の利益」「福田の利益」「除災の利益」「世尊の舎利」)を備えておられます。 十六は部分の総和という法数で、全部を表す数字です。実在の人物とも言われるように、 人間的な姿の場合が多いのも特徴です。 |
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賓度羅跋囉惰闍尊者 bindorabaradasya soniya 十六羅漢の代表格。知恵と病を治す守護尊。空中飛行で女性を驚かしたことで、 釈迦に叱られ、本堂の下座にひかえておられます。おびんずる様とも呼ばれ、 尊像をなで、患部をさすると病いが治ると言われます。西瞿陀尼州(せいく だにしゅう)に住み、弟子の数は千名。 |
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迦諾迦伐蹉尊者
kanakabassa soniya 第二番目の迦諾迦伐蹉尊者(かなかばっさそんじゃ)は、大日如来の相を 有し、尊者が神僧三昧の水をもって傷を洗うと、たちどころに治ると言 われています。加湿弥羅(かしつみら)という国に住み、弟子は五百人おら れました。 |
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迦諾迦跋釐堕闍尊者 kanakabaridasya sonya
れる尊者と阿含教典などに書かれています。東勝身洲(とうしようしんし ゆう)に住んでおられ、弟子は六百名ありました。諾迦跋釐駄尊者(だかは りだそんじゃ)とも言われています。 |
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蘇頻陀尊者 Sobinda
soniya 「羅漢」とは、サンスクリット語の「アラハト」の音写「阿羅漢(あらかん)」 の略です。その第四番目の蘇頻陀尊都(そぴんだそんじゃ)は、須弥山の北、 北俱盧洲(ほつくるしゅう)に住み、弟子は七百名おられました。長寿と 花の守護尊です。 |
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諾距羅尊者 nakura sony. 羅漢とは「尊敬と施しを受ける資格をそなえた人」のことで、その第五番 目の諾距羅尊者(なくらそんじゃ)は、鼠や蛇の天敵で災難除けの守護尊です。 南贍部洲(なんせんぶしゅう)に住んでおられました。弟子は八百名いた ということです。 |
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跋陀羅尊者 badara sonya 十六羅漢の第六番目、跋陀羅尊者(ばだらそんじゃ)は、山の守護尊です。 耽没羅洲(たんもらしゅう)に住んておられ、弟子は九百名おられたとい うことです。他の尊者と比べ、比較的、虎とともに描かれることの多い尊者 です。 |
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迦哩迦尊者
karika sonya 一切の煩悩を絶って、修行の最高位に達した十六羅漢。その第七番目の 迦理迦尊者(かりかそんじゃ)は四季の守護尊です。僧迦荼洲(そうぎゃだ しゅう)に住んでおられ、弟子は千人おられました。迦理尊者(かりそんじや) とも言われています。 |
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伐闍羅弗多羅尊者 baiyarahottara soniya 第八番目の伐闍羅弗多羅尊者(ばじ.やらほったらそんじゃ)は、健康と農 業の守護尊です。釈迦が仏法を説いた鉢刺拏洲(はらなしゅう)に住んで おられました。弟子の数は千名。戎伐闍羅弗多羅尊者(じゅばじゃらほつ たらそんじゃ)とも言われています。 |
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戎博迦尊者 Jyubaka sonya 身体守護と長寿の守護尊。名医でもあり、多くの弟子の病を癒したと伝 えられています。実の父を殺した阿闍世王(あじゃせおう)を釈尊のもと に連れてきて改心帰依させた人でもあります。香酔山(かすいせん)に住み、 弟子は九百名ありました。 |
9 |
辛託迦尊者 ntaka sonjya 半託迦尊者(はんたかそんじゃ)は道中安全の守護尊。第十六番の注茶半 託迦尊者(ちゅだはんたかそんじゃ)の兄で、聡明であり、すぐに悟りを開 かれました。三十三天に住み、弟子は千三百名おられました。比較的、龍神 とともに描かれることの多い尊者です。 |
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囉怙羅尊 ragora soniya 九歳になったわが子、羅怙羅を出家させました。その後、まじめな修行態 度で尊敬を集め、悟りを開かれたのです。畢利腦瞿州(ひりようくしゅう) に住み、弟子は千名です。 |
11 |
那伽犀那尊者 nakasaina sonjya 水の守護尊。紀元前二世紀後半、西北インドを支配したミリンダ王と対論 して、帰依させたナーガセーナのこと。実際は釈尊の弟子ではなく、仏教伝播 に大きく貢献したとして十六羅漢に加えられました。半度波山(はんどは せん)に住み、弟子は千二百名。 |
12 |
因揭陀尊者
inkada sonya 十六羅漢には、それぞれの役割があります。この第十三番目の因掲陀尊 者(いんかだそんじゃ)は、身体健固の守護尊として、多くの人々の衆生 の苦難を救っておられます。広脇山(こうきようせん)の山中に住み、弟子の 数は千三百名おられました。 |
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伐那婆斯尊者 banabashi sonya 十六羅漢を説く経典は「大阿羅漢難提密多羅所説法住記(だい あらかんなん だいみっ たら しょせつほうじゆうき) 」で、玄奘三蔵の訳によるものです。その十六羅漢の 第十四番目、伐那波斯尊者(ばなばしそんじゃ)は海の守護尊です。可住山(か じゅうせん)に住み、弟子は千四百名おられました。 |
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阿氏多尊者 ashita soniya 日本で羅漢信仰が広まったのは鎌倉末期以後。曹洞宗では道元禅師が「羅 漢供養講式文」を著しました。第十五番目の阿氏多尊者(あしたそんじゃ)は、 智慧と山の守護尊で、鷲峯山(じゅぶせん)に住んでいました。弟子は千五 百名おられました。 |
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注荼半託迦尊者
tyudahantaka soniya 第十番の半託迦尊者の弟で自分の名前も覚えられないので、釈迦は掃除 を命じました。しかし、一途に浄めたおかげで「智慧をもって煩悩を払うこ とは掃除と同じ」と悟りを開かれた努力一途の尊者です。持軸山(じじくせん) に住み、弟子は千六百名。 |
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